「朝倉宗滴(あさくらそうてき)」という人物をご存じでしょうか。
朝倉宗滴は1477年(文明9年)生まれで、戦国時代の初期に活躍した武将です。
最強軍師とも呼ばれており、そのため足利家を始めとして全国の武将に影響を与え、協力関係を求められることさえありました。
朝倉宗滴は越前の「朝倉家」の軍師として務めており、合戦経験と他の武将とは一線を画す戦いへのセンスは、当時の将軍「足利家」からの支持も得ています。
そんな朝倉宗滴は、生前、名武将として数々の名言を残しました。
以下で朝倉宗滴の名言を紹介していきます。
多くの人が求めた朝倉宗滴の名言
名武将として活躍した朝倉宗滴は、武術のみならずその思想にも注目を集めるような人物でした。
生涯で12もの戦に挑み、そのほとんどで勝利を収めた朝倉宗滴は、いったいどのような考えの元で戦っていたのか興味を持つ武将が多数いました。
その豊富な実戦経験に基づいた必勝法や、武将としての心構えなど、その名言は他の武将にとっても有益な情報であり、求めた武将が多かったのも頷けます。
朝倉宗滴はどんな名言を残したのか、いくつか挙げていきます。
朝倉宗滴が残した名言
朝倉宗滴が残した名言の中で、代表的なものを挙げていきます。
これらはどれも現代でも生かせるような考え方であって、参考になる部分も多いはずです。
大将は犬と呼ばれようとも、畜生と呼ばれようとも、勝つことが最も大切なのだ
朝倉宗滴が「勝つこと」に如何にこだわっていたかわかる一言です。
犬や畜生と思われようが、戦は勝つということが最も重要であり、そのための策略が非常に大事だと説きました。
手段を選ぶような真似はせず、ただ勝利に向かって突き進むのが正しい姿だと言うのです。
実際に戦というのは勝利がすべてであり、理にかなった考え方だと言えます。
無理矢理に攻めていくのは大将としては失格。それは、兵隊を目の前で見殺しにすることだ
勝つことを重視する一方で、ただ攻めるだけでは勝利できないという意味です。
自分の兵隊の安否を考えることも重要なことであり、それが大将としての正しい姿だと言っています。
何故なら兵隊というのは戦においてとても大切な戦力の一つであり、その兵隊が減ってしまうと戦力が減り、負けることに直結するためです。
戦は兵隊の数が重要視される部分が多く、そのためにも戦力の確保がいかに大事なのかという考え方をしました。
合戦のとき、家来は大将の様子を気にするもの。弱々しく情けない態度を見せたり、口にしたりしてはならない
朝倉宗滴は、戦の際、大将が弱気では家来の士気も下がってしまうことをよく理解していました。
将軍の堂々とした態度が家来の協力を得るために一番大事なことであり、口に出すことさえもいけないという意味です。
大将はいかに家来を従わせるかが戦の勝敗にも関わってくるので、そのためにも強気な態度でいることが大事だと考えました。
戦いの準備は雨の日にするのが良い。戦が下手な武将は晴れた日に準備し、実際に雨に降られた時に対応できないのだ
他の大将は安全で準備がしやすい晴れた日に戦へと備えるのが当たり前でした。
朝倉宗滴の考えは違い、準備に取り掛かりづらい雨の日にあえて準備することで、不測の事態を避けようとしたのです。
雨の日に準備をしておけば、仮に戦が雨の日に起こっても対応することが可能です。
そういったやり方が、他の大将とは一線を画するところだったと言えるでしょう。
部下に無理強いをすると逆効果
朝倉宗滴は部下に対する扱いを非常に重視していたようです。
部下との信頼関係は非常に重要なものであり、いざ戦が起こった時に部下が従わなければ意味がないことを理解していたのでしょう。
無理強いをして部下が大将へと反発するようになれば、当然戦の際にまとまった軍隊を作ることは不可能になります。
その点を朝倉宗滴はよく理解していました。
朝倉宗滴が子弟を戒めた言葉の記録「朝倉宗滴話記」
朝倉宗滴の言葉をまとめた「朝倉宗滴話記」という一冊の書籍があります。
朝倉宗滴の子弟への戒めについての考えを立派に思い、その雑談を聞いていた、家来である萩原某が記録しました。
朝倉宗滴話記が完成したのは、弘治から永禄にかけてとされており、「宗滴夜話」「宗滴物語」などの名称でも呼ばれています。
1巻83ヵ条にわたり書かれており、朝倉宗滴が18歳から79歳までに関わった12に及ぶ戦の体験をもとに綴られた教訓です。
戦国時代に心得るべき教訓が多く書かれていますが、その教訓とはどういったものだったのか説明していきます。
朝倉宗滴話記の現代語訳を要約して紹介
朝倉宗滴話記には、まず大将として深く考えるべき内容、その理由が書かれていました。
そして、部下に対しての正しい扱いがまとめてあります。
大将の心構えとして述べたのが、「武者は嘘をつかず、理と義を立てることが重要であり、信頼を損なうことがないようにすべきであること」という言葉。
戦についての言葉としては、「戦いに戦いにおいては敵の強い場所を避けず、果敢に攻めることが大切である」と述べています。
部下に対する扱いについても触れており、「大将は部下に信頼される存在であるべきで、内外の者に対して公正であることが求められる」という言葉も残しています。
終始一貫として、戦国時代の武士としての心構え、戦術、部下との関係の在り方などが様々な例を交えて語られています。
数々の名言を残した朝倉宗敵が「最強」と呼ばれている所以
朝倉宗滴は、生涯で12の戦に関わっていますが、そのほとんどで勝利を収めています。
軍の数が多いほど戦で勝利できることが当たり前だと思われていた時代にもかかわらず、相手より少数の軍で勝利したことも多々ありました。
どの戦でも勝利できた理由はやはり朝倉宗滴の考え方によるものだったようです。
朝倉宗滴が活躍した時代には、「一向一揆」という、浄土真宗の本願寺門徒が領主へ反乱することが頻発していました。
浄土真宗の本願寺門徒である一向衆は武将と手を組み、大軍を率いて侵略行為をすることがありましたが、朝倉宗滴はそれらの強敵も撃退しています。
当時としては常識外れな朝倉宗滴の行いは、「30倍以上の敵を撃退した武将がいるらしい」という噂として全国に広がっていきました。
最強の軍師、朝倉宗滴はどういった生い立ちで生まれたのか説明していきます。
朝倉宗滴の生い立ち
朝倉宗滴は8人兄弟の末子として生まれましたが、下剋上が当たり前であった時代に兄弟が争うことは珍しくありませんでした。
まず四男の朝倉景総が五男の朝倉教景を殺害し、朝倉家を乗っ取ろうとします。
朝倉宗滴は朝倉景総から協力を求められましたがこの反乱を収め、手柄により朝倉家当主により「金ヶ崎城」を与えられ、朝倉家の軍師となり戦国時代へと参加することになりました。
朝倉宗滴が関わった主な戦
- 朝倉景総と一向衆が協力関係となり、越前へと侵攻してきた際の戦
- 能登国、越中国の一向衆による連合軍との戦
- 朝倉宗滴の存在を全国に知らしめることになった「九頭竜川の戦い」
- 近江国や丹後国、美濃国による侵攻してきた際の戦
- 負けてもなお、越前に攻め込んでくる一向衆との戦
織田信長との関係
美濃国の斎藤道三や、三河国の今川義元などが、活躍していた時、織田信長は、まだ単なる尾張国の一武将でした。
しかしその時点で朝倉宗滴は織田信長の才に気づき、その後の活躍を期待していたようです。
桶狭間の戦いは九頭竜川の戦いと似ている部分があり、参考にした部分があるのではという説もあります。
朝倉宗滴の最期
朝倉宗滴は加賀一向一揆の戦の最中、病に倒れてしまいます。
そして、朝倉景隆に総大将としての役割を任せ、一乗谷へと戻りました。
朝倉宗滴は城に戻ったのち、手厚い看病を受けますが、そのまま病死してしまいます。
最強と呼ばれた軍師、朝倉宗滴の最期は病死で、この世を去ることになりました。