藤堂高虎は「徳川家康」に天下を取らせた男といわれています。家康政治のNo.2とまでいわれた高虎ですが、人生の中で主君を何度も変えた武将としても有名です。その波乱万丈な人生の最後に、自分の思いを家康に託したといわれています。

初陣では武功をあげますが、浅井家は織田信長に滅ぼされてしまいました。そのあと高虎は全国各地を放浪したといいます。その中で城を学びたいと考えた高虎は、安土城の建設現場で働き始めました。そこで高虎の人生を大きく変える人物「羽柴秀長」に出会いました。

豊臣秀吉ではなく、その弟の羽柴秀長に出会えたことが、高虎の運の良さだったのかもしれません。今回はそんな藤堂高虎の名言から、高虎とはどういう人だったのか、どんな人生を歩んだのか紐解いていきましょう。

藤堂高虎の名言

藤堂高虎は主君を何度も変えた武将であり、加藤清正や黒田官兵衛と並び城づくりの名人といわれていました。徳川家康も高虎には絶大なる信頼を寄せていたといいます。

藤堂高虎は豊臣秀長と出会ったことでその才能が開花し、足軽から始まり、最終的には徳川のNO2となった武将です。そんな高虎はいくつかの名言を世に残しています。

戦に明け暮れ、主君を7度も変えた戦国時代の変わり者ともいうべき藤堂高虎の名言を見てみましょう。

理想の主君に会えるまで主君を変えよ

戦国時代に主君を何度も変えていたら裏切り者といわれないのだろうかと心配になってしまいますが、藤堂高虎は以下のような名言を残しています。

武士たるもの七度主君を変えねば武士とは言えぬ

戦国の世で主君を何度も変えることはタブーだったのではないかと思いますが、高虎は理想の主君に会えるまで主君を次々と変えていきました。ただ高虎は裏切りではなく「この人の家臣になりたい」と思う理想の主君を探して、主君を変えていました。

現代でも優秀な人は仕事を選び、自分に合った理想の職場に転職するなどといわれますが、高虎はまさしく優秀な人だったのでしょう。

また高虎の場合、ただ戦に強いということではなく、築城の名手だったことで主君を変えることができたといえます。建築という特別な技術を持っているからこそ、その技術を活かして自分の人生を「自分で」切り開くことができたのです。

人生何があるかわからないからこそ毎日必死で生きろ

足軽から徳川のNO2になるまで、藤堂高虎は7回、主君を変えています。新しい主君になるたびに、新参者といわれ冷たくされていたようです。あるときは流浪生活となり無銭飲食もしたと伝えられています。

しかしそれでも高虎は高い志を持って耐えました。その心中で何を思っていたのか、以下の名言を読むと理解できます。

寝屋を出るよりその日を死番と心得るべし。かように覚悟が極まれば物に動ずることはなくなる

厳しい戦国の世を生きぬくためには、どんなことがあろうとも日々必死に生きなければならないという言葉です。
一歩部屋から出れば、その日が自分の命日になる可能性もある、この覚悟を持っていたからこそ、高虎は思慮深い徳川家康に信頼されたのだと思います。

決定権はあくまでも主君 高虎の処世術がわかる名言

藤堂高虎は秀忠が二条城を改修する際、改修の2つの案を見せています。その時に秀忠から「どうして案が2つもあるのだ」と問われました。すると高虎は秀忠に、以下のように答えたといいます。

案が一つしか無ければ、秀忠様がそれに賛成した場合私に従ったことになる。しかし二つ出しておけば、どちらかへの決定は秀忠様が行ったことになる

案が1つでそれに秀忠が賛同した場合、高虎が決めた案が採用されることになります。しかし案が2つあって、秀忠がそのいずれかに決定すれば、それは秀忠が決めたことになるというわけです。

高虎は主君を何度も変えた経験から、決定権はあくまでも「主君」であるべきと知っていたのでしょう。

藤堂高虎の名言に関する逸話

大阪夏の陣「800人の首実験」

大坂夏の陣において双方の死者は2万を超えたといわれています。兵士以外、大阪城からは1万から2万もの人が逃げたといわれており、避難した人の中には落ち武者狩りや夜盗に襲われ命を落とした人もいたそうです。

そのような状態の中で高虎は、常光寺の廊下にずらりと打ち取った800人の首を並べて「首実験」を行ったといわれています。

並べられた首を討ち取ったという人物に対し、討ち取った相手の名前や戦いの様子などを申告させて、戦功の証としたのです。この時に首を並べた廊下の床板は血にまみれ、踏みつけるのはよくないと天井の板にしました。現在でも「血天井」として常光寺に残されています。

常光寺

藤堂高虎は主君を変えるたびに出世した

藤堂高虎は戦に明け暮れた人生の中で、7回主君を変えました。そのため「風見鶏」などと揶揄する人もいます。ただ高虎が何人も主君を変えられたのは、「築城」の技術を持っていたからでもあります。

若い頃から自分が理想とする主君、理想とする働き口を求めてさすらっていた高虎は、転職しては経験を積み主君を変えるたびに出世していきました。

高虎は以下の武将に仕えています。

  • 浅井長政
  • 阿閉貞征(あつじさだゆき)
  • 磯野員昌(いそのかずまさ)
  • 津田信澄
  • 豊臣秀長
  • 豊臣秀吉
  • 徳川家康

特に、豊臣秀長の家臣になったことが高虎の人生に大きな影響を与えています。秀長は粗暴な高虎を教育し、様々な経験を積ませたのです。

粗暴で不器用でも一本気で真面目な高虎を信頼し理解してくれた、理想の主君でした。大柄で槍を振り回すだけの粗暴者は、秀長に出会いどのような部隊でも統率できる武将となったのです。

藤堂高虎の遺体は手足の指の欠損があった

藤堂高虎は築城の名人だったという話が有名ですが、武将としてもたくさんの功績を残しています。高虎は6尺2寸「190㎝」の大男でした。現代でも190㎝は大柄といえますが、戦国時代の平均身長を見ると「男性は155㎝、女性は145㎝」とかなり小柄です。高虎はまさしく規格外の大きさでした。

高虎は江戸の藤堂藩邸で74歳の人生を終えました。高虎の遺体は全身傷だらけで、手足の指がいくつも欠損しており、爪のない指もあったといいます。戦に生きた武将らしく、歴戦の痕が体にも刻み込まれていたのです。

藤堂高虎が仕えた主君はみな短命

藤堂高虎は兄が戦死すると14歳で家督を継承しました。その後、近江国の浅井長政に仕え、そこで初陣を迎えています。初陣は武功をあげ勝利しましたが、その後、浅井家は織田信長に滅ぼされてしまいました。

主君が死亡したため、主君を変えたのも不可抗力です。しかし高虎はそのあと3年の間に主君が3人変わりました。そして4人目の主君が高虎の運命を変えたといわれる豊臣秀吉の弟「秀長」です。高虎の能力を見抜き知識を養わせ、中国攻めや賤ケ岳の戦いなどを経験すると、秀長の右腕と呼ばれました。

その秀長も50代で病死し、跡取りの秀保も17歳という若さで死亡します。これによりお家断絶となってしまったのです。このように高虎自身が主君を変えたというよりも、高虎が仕えた主君がみな短命だったために主君を変えざるを得なかったともいえます。

藤堂高虎は秀吉ではなく秀長が大切だった

秀長と跡取りの秀保が亡くなったことで、高虎は出家して高野山に籠ってしまいました。しかしその才能を惜しんだ豊臣秀吉が説得し還俗(出家から俗世に戻る)します。伊予国板島で大名となり朝鮮水軍と戦うなどして武功をあげました。

しかし3年後には秀吉が亡くなってしまいます。秀吉が亡くなってから3年後、天下分け目の戦といわれた「関ヶ原の戦い」が始まった際、高虎はなんと「徳川方」につきました。秀長に秀保、そして豊臣秀吉と、高虎は「豊臣」に仕えていたのに「徳川」についたのです。

高虎は恩顧ある豊臣を裏切り、徳川についた不忠義者というレッテルを貼られました。しかし高虎からしてみると、忠義を尽くしたい相手は「秀長」であり、豊臣家ではなかったのではないかといわれています。秀長が亡くなり、自分が本当に理想とする主君は誰なのかと考えたとき、目の前に「徳川家康」がいたのではないでしょうか。

藤堂高虎は城づくりの名人だった

築城名人というと黒田官兵衛に加藤清正、そして藤堂高虎です。このうち、清正と高虎は全くタイプの違う城を造っていました。そのため現代の城マニアの中でも好き嫌いが分かれるようです。

加藤清正の城は反りのある石垣「武者返し」が特徴的で、忍者でも上ることができないといわれました。天守は望楼型と呼ばれる豪華な造りです。難攻不落で複雑な造りの城は、美しくインパクトが強いのですが、築城までに時間がかかるのが難点でした。

藤堂高虎の城はシンプルで無駄がない造りで、石垣も反っておらず直線的です。天守は高虎が編み出した「層塔型」と呼ばれるもので、同じ形の構造物を積み上げていくことで工期もコストも抑えられた合理的なものでした。

徳川幕府から「とにかく早く、安く、そして丈夫に」と要望があり、それに応えた高虎の城づくりの技術は相当なものといえるでしょう。

藤堂高虎と丸餅

藤堂高虎がまだ若い頃の話が、藤堂藩家老の日記に残されています。

主君のところから飛び出し各地を放浪していた高虎は腹が減り、勢いで餅屋に入り餅を食べたがお金がありませんでした。高虎は謝るしかありません。「お金はない」と正直に謝ると、餅屋の主人は「出世払いでいい」といい、さらに追加の餅を高虎に持たせてくれたのです。

高虎はこの恩義を忘れることなく、後に餅屋を訪れると、出世払い以上のお礼をしたと伝えられています。

藤堂高虎の家臣に関する逸話

藤堂高虎の家臣がある日、暇乞いをしました。すると高虎は「どこか行くあてがあるのか」と尋ねたといいます。

家臣が正直にいく先を告げると、高虎は「餞別に太刀などとらせよう、存分に腕を奮え」と送別会(茶会)を開いて送り出してくれたそうです。家臣は深く感謝し、この恩を生涯忘れませんと感激しました。

通常、他家へ行くと聞けば気分はよくないでしょう。うちが嫌で他のところに行くのかなど、余計な詮索をしてしまうこともあると思います。しかし高虎は家臣を案じ、また活躍しろよと送り出してくれたのです。

藤堂高虎の生い立ち

近江国にほぼ農民と変わらないまでに落ちぶれていた藤堂家に生まれた高虎は北近江の大名浅井長政に足軽として仕え、その後、豊臣秀長と出会い数々の武功をあげました。

秀長の死後、秀吉の元で出世しましたが、秀吉の死後は徳川方につき、家康は高虎を深く信頼していたといわれています。家康が亡くなる前、外様大名たちの中で高虎だけが会うことを許されました。また家康は「死後は天海と高虎と共に眠りたい」とまで言い残し、日光東照宮には家康、高虎、天海の像が祀られています。

主君を7回も変えた高虎が戦国の世を生き抜いたのは、城づくりの名人だったこともありますが、高虎自身のまっすぐで嘘のない人格が好まれたのではないでしょうか。