上杉謙信は、戦国時代に越後国(現在の新潟県)を支配していた上杉氏の16代当主です。
敵に塩を送る」という故事の元になった、敵の武田信玄に塩を送ったエピソードは非常に有名です。義を重んじる性格や、北条氏武田信玄織田信長といった名だたる戦国武将と幾度と戦う豪胆さも人気な理由のひとつ。戦国武将を語る上で欠かせない人物といえます。

今回は上杉謙信の家紋について紹介します。上杉謙信が使い分けていた4つの家紋について、それぞれの由来やその家紋を使うことになった経緯について解説します。ぜひ最後まで読んでみてくださいね。

上杉謙信が使用していた家紋

上杉謙信は以下4つの家紋を使い分けていました。

上杉笹

九曜巴

五七桐

十六菊

それぞれの意味や由来について解説をします。

上杉笹

上杉謙信の家紋の中で最も有名なものが「上杉笹」です。9枚の笹の葉の中に2羽の雀が向かい合わせに描かれており、その周りを通常の太さの丸で囲っています。

この家紋を使うようになったのは、上杉氏の本家である公家の勧修寺家が使っていた家紋が「竹に雀」だったことが関係しています。勧修寺家の家紋との違いは円の中に描かれている雀の数。本家である勧修寺家は3羽の雀が描かれていますが、分家である上杉氏は格が下であることを示すため2羽の雀を描いています。

上杉謙信はこの家紋を「上杉」の家督を譲り受け、関東管領に就任した際に賜ったとされています。上杉謙信が拝領した際の上杉笹は画像のデザインとは若干異なっており、描かれている笹の葉の枚数が多い、余白があるといった違いがあります。さまざまなデザインの変遷を経て、江戸時代中期に上記のデザインに落ち着きました。

九曜巴

九曜巴」は長尾氏に代々伝わる定紋公的な場で用いる正式な家紋)です。菩薩信仰を根底とする九曜紋に、巴のデザインがあしらわれています。

かつて長尾氏の家紋は「九曜紋」という丸が9つ描かれているだけのものを使っていました。やがて武士の守り神である八幡神を信仰するようになり、八幡神社の神紋(神社に伝わる紋)である「巴」を九曜に配置したとされています。はっきりとした成立時期は不明ですが、おそらく鎌倉時代末期〜室町時代初期だと考えられています。

上杉謙信はこの家紋を「長尾景虎」と名乗っていた頃使っていました。しかし、長尾景虎が上杉の家督を継いだことで越後長尾氏は徐々に血筋が途絶え、九曜巴が使われることはなくなっていきます。

五七桐

桐の紋は7世紀ごろから天皇家専用の紋章として用いられています。高級木材である桐は、中国では「鳳凰が棲む」木として伝えられており、格式高く高貴さの象徴として重用されています。室町時代に足利尊氏が桐紋を下賜され、足利将軍家が分家らにも分け与えたことをきっかけに、天皇家から武士の間へ徐々に広まっていきます。

上杉謙信が賜ったのは桐紋の中でも「五七桐」と呼ばれるもの。下部に3枚の桐の葉、その上部の中央に7つ、その左右に5つの桐の花を並べた紋です。この家紋は上杉謙信が上洛した際に当時の天皇から賜ったものだとされています。

上杉謙信は五七桐を拝領したとされていますが、その後上杉氏はこの家紋の桐の花の部分にアレンジを加え、「上杉笹」という独自の家紋に変化させました。

 

十六菊

十六菊」は、16枚の花びらが描かれた菊紋です。菊紋は非常に権威が強いことから、明治時代以降皇族以外の使用を禁じていた時期もありました。現在でも皇族が利用しており、日本のパスポートにもこの家紋が表紙に入っています。

十六菊紋も五七桐紋と同じく、天皇から与えられた家紋だとされています。上杉謙信は戦乱の最中、京都に出向くのは大きなリスクを伴っていたにもかかわらず、義を重んじ密かに上洛し天皇と謁見しています。2回ほど機会を得ており、その際、来たるべきときに京都を制圧し皇室を守ることを約束しました。上杉謙信のこの対応に感動した天皇は、五七桐紋と十六菊紋を賜ったとされています。

上杉謙信はなぜ家紋が複数あるのか

上で紹介したように、上杉謙信は4つの家紋を使用しています。複数の家紋を使い分けることは戦国時代では当たり前に行われていました。なぜ戦国時代を生きた武将達は複数の家紋を使っていたのか、この項目で解説を行います。

戦国時代は複数の家紋を使うことが当たり前だった

1つの家につき1つの家紋という印象が強いですが、戦国大名は功績を称えられ、主君から家紋を拝領することも多くありました。その結果、複数家紋を持つ戦国大名が大多数を占めるようになります。かの有名な偉人・織田信長は7つもの家紋を使い分けていました。

複数の家紋を持っていた戦国大名は、公的な儀礼や行事の際用いる「定紋」と、そのほか私用などで用いる「替紋」(別紋)とで使い分けを行なっていました。衣服などで家紋が入っているべき場所に入っていないのは違和感があるが、家族行事などの非公式な場で「定紋」を使うわけにはいかないという事情があり、替紋も重視されていたようです。戦に出向く時に掲げる「旗指物」に替紋が使われている例も多くあります。

「長尾景虎」から「上杉謙信」に改名したことで家紋が増えた

戦功により増えることが多い家紋ですが、上杉謙信の場合は少し事情が特殊です。

上杉謙信は元々上杉家に仕えていた長尾氏の出自であり、家督を譲り受けるまでは「長尾景虎」(ながおかげとら)と名乗っていました。そのため、「長尾景虎」と名乗っていた時代は長尾氏の家紋である「九曜巴」を使用しています。

しかし、北条氏康との戦いにより敗れた上杉憲政(うえすぎのりまさ)を助けたことがきっかけで、「上杉」の家督を譲り受け「上杉謙信」と名乗るようになります。上杉氏の家督と関東管領職を受け継いだ以上、今までの家紋を使うことはできません。そのため、代々上杉氏の家紋である「上杉笹」を用いるようになりました。

上杉謙信の旗印は家紋ではない!旗印に使われた文字とは


旗印」とは、戦場で武将が己の所在を示すためにかがげていた旗のことです。特に戦国時代では戦いの動員も増えていたため、敵味方の区別はとても重要でした。武士にとって、自分の味方の旗を見かけることは心の支えになったといいます。

戦国時代は多くの戦国武将が戦いに参じていたため、自分が功績をたてた時に他人に間違われたりしないよう見分けのつきやすい印を使っていました。家紋を用いる武将も多くいましたが、上杉謙信は「」という字と「」という字を使用しています。

」の文字は、戦いの神として崇められている毘沙門天から取っています。上杉謙信は毘沙門天を崇拝し、自分は毘沙門天の化身だと信じていたほどです。この旗は本拠地春日山城を発信するとき真っ先に掲げられていました。

」の字の旗は「懸り乱れ龍の旗」と呼ばれています。この旗は突撃の際に掲げられていました。「越後の龍」という異名で知られる上杉謙信ですが、この旗が由来になっています。

伊達政宗の家紋は上杉謙信の「上杉笹」と似ている


上杉謙信を象徴する家紋といえば「上杉笹」ですが、独眼竜で有名な初代仙台藩主・伊達政宗も「竹に雀」の家紋を用いています。これは偶然ではなく、伊達氏と上杉氏の家紋が似ているのには理由があります。

伊達政宗が使っている家紋は、元々上杉氏から賜ったものだとされています。政宗の曽祖父・伊達稙宗(だてたねむね)の三男、実元が上杉氏の養子に行く話が起こり、その際に上杉氏から「竹に雀」の家紋を贈られました。
養子の話はその後破談となりますが、家紋のみそのまま伊達氏のものとして残ったのです。

江戸時代に入ると、伊達氏の家紋は独自性の高いデザインに変化していき、「仙台笹」と呼ばれるようになります。「仙台笹」は中心の雀を囲う形で竹輪と笹の葉が描かれています。