鎌倉時代(1185〜1336年)は今から800年以上前にあった時代であり、現代と比べてさまざまな点に違いがあります。中でも、食事は現代と鎌倉時代で色々な違いがある一方、鎌倉時代から始まったこともあるのです。
今回は、鎌倉時代の食事を中心に、鎌倉時代の食事内容やエピソード、後世に与えた影響などを詳しく解説していきます。
今では当たり前となった和食も、実は鎌倉時代から始まったと言われているほか、食事によって時代の変化につながったこともさまざまなエピソードからわかります。
大河ドラマにおいても深くは掘り下げられることがない鎌倉時代の食事について、エピソードなどを交えてまとめました。
鎌倉時代における階級別の食事内容
鎌倉時代は日本の歴史上初めて武士が政権を握った一方、貴族にも力がありました。まずご紹介するのは、階級別の食事内容です。
- 貴族の食事
- 武士の食事
- 庶民の食事
貴族と武士はどんなものを食べていたのか、庶民はどのような食事を強いられていたのか、三者三様の食事内容をまとめました。
貴族の食事
貴族の食事は白米中心でした。今でこそ白米は当たり前ですが、鎌倉時代において、白米を食べられるのは貴族の特権であり、武士すらも白米は食べていませんでした。
一方で、白米を柔らかめにして食べる「姫飯(ひめいい)」という食べ方や、おかゆ状にして食べるケースなどが目立っており、お米の栄養が詰まった「胚芽」は取り除かれていました。
白米は食べていても栄養素が落とされるため、ビタミン不足になりやすいほか、おかずも干物などが中心で新鮮な魚を食べられるわけではありません。
結果として、「しっかり食べているのに不健康」という状態になっており、健康問題が危惧されるような状況だったと言えます。
武士の食事
武士は胚芽を含んだ玄米を食べていました。武士はお米を炊くのではなく蒸して食しており、1回あたりの食事で2.5合を食べ、出陣すると1日で最大10合も食べていたのです。
また、戦いの最中にサッと食べられるよう「屯食(とんじき)」と呼ばれるものが出てきました。今でいうおにぎりに相当するもので、この時からおにぎりが出てきたと言えます。
おかずは保存食が多かった貴族と違い、武士は戦いでの体力をつけるため、肉を食べていました。しかし、牛などは農作業に欠かせないパートナーだったため、ウサギやイノシシ、クマなどを食べていたのです。
他には新鮮な魚や野菜などもしっかりと食べていたため、貴族と比べると食事の状況は大きく異なっていたことが言えます。
庶民の食事
庶民のほとんどは農業を行っていましたが、当時は米が税金代わりだったため、玄米に麦・ひえ・あわといったものを混ぜて、おかゆにして食べるのが一般的でした。
そして、ハレの日でしか蒸した玄米が食べられないような食生活を余儀なくされていたのです。庶民でもご飯をしっかりと食べられるようになったのは、昭和に入ってからと言われています。
しかも、味噌などの調味料は鎌倉時代に登場し、庶民にはまだその存在すら知られていなかった時代でした。
一方で、魚や野菜、山菜などが食事に出てきたほか、動物の肉なども出てきており、実は貴族と比べると栄養のバランスはそれなりに優れていたことが指摘されています。
鎌倉時代の食事の回数は?
鎌倉時代の食事回数は、貴族から庶民まで朝晩の2回が一般的でした。今のように時計もなければ電気もないので、1日に稼働できる時間も限られており、1日2食でも事足りたと言えるでしょう。
しかし、武士は戦いなどもあり、体力回復を必要としました。そこで間食を繰り返す中で、次第に1日3食が定番化していき、武士の中では1日3食が一般的になります。
庶民も含めて1日3食が定番となるのは江戸時代に入ってからなので、鎌倉時代までは武士以外は1日2食、武士は3食以上という状況でした。
鎌倉時代の食事事情
貴族・武士・庶民にはそれぞれ食事の事情がありましたが、主な鎌倉時代の食事事情は以下の通りです。
- 食事の制約が多い貴族は総じて不健康に
- 源氏と平氏の明暗は食事の差
- 庶民は度重なる凶作などで食事に困る
食文化がさまざまなところに影響を与えだしたのが鎌倉時代です。本項目では鎌倉時代の食事事情について詳しく解説します。
食事の制約が多い貴族は総じて不健康に
白米を食べられた貴族でしたが、武士だけでなく庶民と比べても栄養状態はいいとは言えず、不健康だったと言われています。不健康の要因として挙げられるのが食事の制約の多さです。
当時肉食は貴族の間で忌避されていたほか、近くに海がない京都に都があったこともあり、新鮮な魚も食べられず、保存食を食べざるを得ない状況でした。しかも、狩りができる人もおらず、肉をこっそり食べようにも難しかった状況です。
加えて、貴族は食事の時間・食べ方などが細かく定められていたほか、運動の機会も少なく、結果として不健康になっていきました。
源氏と平氏の明暗は食事の差
鎌倉時代は源氏が平氏を打ち破ったことで誕生した武士政権ですが、源氏は武士の食事、平氏は貴族の食事をベースにしていました。玄米をしっかりと食べて肉などを食べてていた武士と、胚芽を取り除いた白米を食べて肉などが食えなかった貴族の差は歴然でした。
しかも、源氏の食事は硬い食べ物が多かったとされ、アゴも強力で丈夫だったと言われている一方、平氏は柔らかいご飯を食べており、ひ弱さがあったとされています。
源氏の食事は今に置き換えてもバランスのいい栄養がとれており、まさに理想的でした。その点においても源氏と平氏では大きな差があったと言えるでしょう。
庶民は度重なる凶作などで食事に困る
鎌倉時代は凶作や飢饉が度重なって起きた時代と言われており、寛喜の大飢饉は記録的冷夏や台風によって生じることになります。庶民は食事に困り、餓死者が続出したと言われています。
記録的冷夏も終わり、暑い夏が戻ってきたかと思いきや、今度は猛暑と干ばつが襲い掛かるなど、およそ10年ほど飢餓状態が続いたとされているのです。
当時の執権・北条泰時は飢餓の時期限定で人身売買を有効とするなど、さまざまな戦略で庶民が生き残る術を打ち出していきました。
鎌倉時代の食事が後世に与えた影響
鎌倉時代の食事が後世に与えた影響は数多く、私たちの今の食生活に密接につながるものばかりと言えます。
最後に、鎌倉時代の食事が後世に与えた影響についてまとめました。
醤油や味噌などが登場し和食文化が築かれていく
今の和食に欠かせない調味料に醤油や味噌などがありますが、実は鎌倉時代になってようやく醤油や味噌が出てきており、それまではこれらのものはありませんでした。
醤油は、中国で修行していた禅僧が、修行先のお寺で作られていた味噌の作り方を逆輸入し、その製造工程の中で桶の底にあった液体がルーツとされています。こうした調味料は寺院を中心に継承されたため、今のように醤油が一般的となるのは室町時代の終わりからです。
また鎌倉時代まで味噌は何かにつけて食べるのが一般的でしたが、粒味噌をすって水に溶かして飲む、いわゆる「味噌汁」が出始めます。
味噌汁が庶民の間で一般的になるのも室町時代に入ってからでした。今に通じる和食文化の始まりは鎌倉時代から始まったと言っても過言ではありません。
食事のマナーは鎌倉時代に確立されて現代に至る
食事のマナーに関しても鎌倉時代に確立されたと言われています。鎌倉時代の初期に活躍した道元という禅宗が「赴粥飯法(ふしゅくはんぽう)」という食事の心得を定めたことが始まりです。
「姿勢を正して食事をすること」や「食器は両手で持つ」、「音を立ててすすったり食べたりしない」など、現代に通じる食事マナーが既に鎌倉時代に定められていたのです。
鎌倉時代、飢饉が発生して食べることすら困った時があったため、食べることへの感謝を示す思いがあったとされています。
現代では何でもマナーとされて息苦しく感じる人が増えてきました。なぜマナーができたのかを振り返ると、根底にあるのは感謝の気持ちであることが言えます。