石田三成は豊臣秀吉が長浜城主だった頃に気に入られ家臣となりました。のちに秀吉の下で五奉行という立場になり、戦乱の世を治め平和な世にしようと尽力した人物です。

三成の旗印に利用されている「大一大万大吉」は「一人が万民のために、万民は一人のために尽くせば、天下の人々は幸福(吉)になれる」という意味があります。この旗印を見ても、三成の「平和の世」に対する願いがわかるでしょう。

豊臣秀吉に見いだされ秀吉を支え続けた三成は、秀吉の死後、天下を取ろうと動き出した徳川家康に戦いを挑み、あの有名な「関ヶ原の戦い」が勃発したのです。忠義に熱く、豊臣を裏切ることなく戦に挑み、敗軍の将として処刑されました。今回はそんな石田三成の不器用でも忠義を尽くした性格について紹介します。

石田三成の性格|戦国武将のお手本のような性格だった

石田三成が人生の中で最もこだわったのが「豊臣家」です。秀吉に気に入られ豊臣の家臣となってから亡くなるまで、忠義を尽くしました。

生真面目で実直、一度決めたことは曲げずに最後まで押し通す三成は、いわば「戦国武将のお手本」ともいうべき性格です。

戦国時代で「頭脳派」といえば石田三成と名が挙がる三成は、知力を駆使し豊臣家を最後まで支え続けました。最後の戦いとなった「関ヶ原の戦い」では、脳裏輝元率いる西軍として徳川家康率いる東軍と戦い敗れました。

戦や逸話などを見てみると、三成の性格が見えてきます。戦国時代の中で、歴史に名を残した三成の性格を詳しく見てみましょう。

常に品をもって物事に応じた石田三成

石田三成小早川秀秋に対し、以下のような言葉を向けています。

汝に二心あるを知らざりしは愚かなり。されど、義を捨て人を欺きて、裏切したるは、武将の恥辱、末の世までも語り伝へて笑うべし

「お前が徳川についた裏切りに気づくことができなかった私は愚かである。しかし義を捨て人を欺いて裏切るなど、武将として非常に恥ずかしいことだ。今回のこの行いは末代まで語り継がれる笑い話だ」

通常、人から裏切られた場合、裏切った人に対し怒りを向けます。もちろん三成も小早川秀秋に対し怒りを向けていますが、その前にまず自分が愚かだったと認めているのです。実に三成らしい言葉です。

三成のように地位があり、まして戦国時代の武将でありながら、自分の否を認めてから相手を罵りました。三成の言う通り、小早川秀秋は現代でも裏切り者として語り継がれています。

何事も最後まで諦めない強さを持っていた石田三成

石田三成は関ケ原の戦いの後、京都の六条河原で処刑されましたが、その際、次のような言葉を残しています。

大義を思ふ者は、仮令首を刎らるる期迄も命を大切にして、何卒本意を達せんと思ふ

「人として歩くべき最も重要な道を貫くのならば、首をはねられるその瞬間まで自分の命を大切にし、その決意を最後まで貫こうと思う」

三成は一生涯、豊臣秀吉と豊臣家に仕えました。その忠義は強固なもので、自分の首がはねられようとも豊臣秀吉と豊臣家のためになることは何かと、最後の瞬間まで考え続けたのです。

三成は最後まで己を貫き、諦めることなく散っていきました。三成の強さとゆるぎない忠義心を感じます。

石田三成の真面目な性格がわかる逸話

豊臣秀吉の「太閤地検」実行役として実直に働いた

豊臣秀吉が天下人となり、戦乱の世が終わるのではないか、そんな兆しが見えたころ、石田三成は秀吉から重要な役割を与えられました。秀吉が打ち出した財政改革である「太閤検地」の実行役を任されたのです。

太閤検地では全国各地を巡り、田畑の広さ・収穫量を調査し、エリアごとに「石高」を取り決め、生産を計測するという政策です。三成は美濃・奥羽・越後・薩摩など各地の測量を行い石高を取り決めていきました。三成はこれにより検知の知識を持つ専門家となり、検知奉行相談役にも就任します。

さらに三成は「七ヶ条の誓い」を検知奉行に定めさせ、不公平な検知をしないように努めたのです。まっすぐで曲がったことが嫌いな三成らしい方針といえます。こうして三成は秀吉の財政改革を力強くサポートしました。

農民に「直訴」を認めた「十三ヶ条掟」と「九ヵ条掟」

三成は30代で近江国坂田郡の「佐和山城主」となりました。佐和山は軍事的にも経済的にも重要な場所で、畿内(京都に近い国々のこと)と東国を結ぶ要です。そのような重要なエリアを石田三成に任せるのはもったいないともいわれていました。

しかし佐和山で統治をおこなった三成は「領民思いの善政」を行います。領地内で「十三ヶ条掟」と「九カ条掟」を制定、年貢の計算に詳細な規定を設けました。

この規定の中には、農民が困ったら取次役を通さなくても、三成に直訴してくださいと書かれています。わかりにくかった年貢のシステムをわかりやすくし、しっかりと農民たちに年貢を支払うところなど、実直な三成らしい取り決めでした。

最後まで豊臣家と共に戦った石田三成

石田三成の能力を最初に見出したのが豊臣秀吉です。秀吉はまだ若い三成の気配りや考え方に触れ、自分の家臣にすることを決めました。寺の茶坊主(小姓)だった三成は、秀吉に出会い見いだされ出世していきます。

戦においては他の武将よりも秀でたところはなく、三成は文治派として裏方業で、その能力をいかんなく発揮しました。軍勢の物資を運んだり、兵站支援したり、また領内の統治などもおこなっていたようです。

こうして三成は豊臣政権下で、秀吉の命令に対し忠実に実行しました。晩年、秀吉が朝鮮出兵や千利休切腹事件など、常軌を逸した行いをしたときにも、三成はそれに抗うことなくともに実行しています。

最終的に徳川家康に負け処刑されるのですが、その際、福島正則は「豊臣家の真なる忠臣は、石田三成であった」といったといいます。まさしく、三成は豊臣に忠義をしつくして世を去りました。

真面目過ぎたからこそ「勘違い」された

三成はその真面目過ぎる性格からか、「勘違いされる」ことがありました。秀吉の朝鮮出兵の際、長期戦となったことで日本軍は疲弊し、明国と何とか講和に持って行こうと考えていました。しかし秀吉は戦況は上々と報告されていたため、かなり強気な講和条件を提示しろといってきたのです。

三成は兵士たちの状態を見ていち早く講和できるよう、小西行長と弱気な条件を提示しようとし、止めに入った加藤清正ともめました。小西行長は秀吉に清正が目に余ると報告し、清正は無理やり帰国させられたのです。しかし清正は秀吉に忠実な三成が何か話したのだと勘違いし、三成のことをひどく恨みました。

明国は三成らが提示した弱気な講和条件をのみ、秀吉に向けてその承諾書が届きます。もちろん秀吉が提示した強気な講和条件による承諾書ではなく秀吉は激怒し、再度朝鮮出兵を決めたのです。

しかし小早川秀秋は明国の勢力の強さを懸念し、朝鮮の城を放棄して戦線縮小を図るように提案しました。三成らはこれを却下し、これを知った秀吉は発案者を厳しく処分してしまいます。勝手な行動をしたとして小早川秀秋は領地を変え、減らされるといった厳しい処分を受けました。ここでもまた秀吉に忠義を誓っている三成が仕組んだに違いないと勘違いされ、恨みを買ってしまったのです。

石田三成は「義の武将」

石田三成は権力欲が強く、千利休も豊臣秀次も、そして加藤清正も陥れられたといったイメージを持っている人も多いでしょう。しかしこうした三成の話は、江戸時代の史料によるもので、元々旗本であった江戸幕府側の人が書いていたのだから、三成が酷評されても仕方ないのです。

三成は毛利輝元率いる西軍8万をまとめ、当時もっとも力をつけていた「徳川家康」がいる東軍と真っ向からぶつかった武将です。本当に人を陥れるような卑屈な人間であれば、自分が真っ向から対峙し、負ければ打ち首が明確な戦に討ってでるでしょうか。石田三成は決して酷評されるような人物ではなく、「義を尽くした武将」でした。

あまりにも有名な「三杯の茶」から見えてくる石田三成の「義」

豊臣秀吉が三成を家臣にしようと引き立てたきっかけになったのが「三杯の茶」の話です。これはあまりにも有名な話なので、知っている人も多いと思います。

秀吉は鷹狩りの後、喉が渇いたといって近江国の寺に立ち寄ります。寺の小姓が茶を運んでくると、まずは大きな茶碗にぬるめの茶が出てきました。喉の渇きが癒えてほっとしていた秀吉に小姓は小ぶりの茶碗を持ってきます。今度は少し熱い茶でした。

秀吉がおいしそうにその茶を飲むと、今度はすぐに小ぶりな茶碗に熱々の茶を出したといいます。この細やかな気配りの茶を出した小姓こそ、石田三成です。

ただこのお話は江戸時代に成立したお話で史料はありません。また三成は近江ではなく姫路で秀吉の家臣となったと記録されていることから、この逸話は作り話だといわれています。しかし作り話でも、三成の性格を伝えるためにできた話ととらえると納得できるのです。

秀吉を天下人に持ち上げた「中国大返し」での石田三成

豊臣秀吉が天下人となる前、織田信長に仕えていた秀吉に仕えていた三成は、本能寺の変の後の「中国大返し」でもその知力を発揮しました。

織田信長が明智光秀の謀反により京都の本能寺で亡くなります。秀吉は急ぎ大垣から木之本へ向かいます。この時軍勢がスムーズに行軍できるようにと、握り飯と松明を準備しました。

この時、中国大返しがうまくいかず、他の武将に先陣を切られていたら、豊臣秀吉の天下統一はなかったかもしれません。主君信長が討たれ、1番に明智討伐に動いたことで、後に行われた信長の跡継ぎ決め「清須会議」でも、意見の重さが違ったはずです。

三成の兵糧や武具の手配や行軍のサポートがあったからこそ、秀吉は天下人への第一歩をすぐに踏み出せたといえます。

石田三成の「義」は正論すぎた?

石田三成は秀才で真面目、融通が利かない頑固な人物だったといわれています。ただ三成は友人とも親交が深い人でした。直江兼続に加えて小西行長も友人の1人です。

真面目で一本気な三成は、色々なことに気を配ることができても、他の人から見たらその気を利かした行動こそが、頭がよく嫌味な人と思わせたのかもしれません。

頭もよく、秀吉に信頼されていた三成は、誠実に秀吉の言葉を実行していました。不器用なほどに真面目に物事をこなす三成の態度がときに横柄だと取られたかもしれません。頭が良い分、その言葉は正論過ぎて、相手から反感を買うこともあったと思います。

石田三成はどんな人?簡単に紹介

石田三成は近江国坂田郡で浅井氏に仕えていた豪族「石田正継」と浅井氏家臣の娘「瑞岳院」の間に生まれました。色が白く美しい少年だった三成は、隣町にある大原観音寺で幼少期を過ごしたといわれています。

三成については普通の武将とは違う逸話が残っています。一般的に4万石の領地持ちとなれば家来も複数いるのだろうと秀吉が尋ねると、三成は「一人だけですよ」と答えました。その1人は実力ある猛将島左近で、通常小禄武将に仕えるような人物ではありません。秀吉が一体いくらで雇用したのかと尋ねると4万石の半分だと答えたのです。

仕える人と同じ禄高など聞いたことがないと秀吉はあきれながらも、三成らしいと思ったようです。その後、秀吉が関白に出世すると三成は五奉行に任命され、大出世を果たしました。最終的に秀吉亡き後、関ケ原の戦で敗戦武将となってしまいましたが、三献の茶(三杯の茶)の一件で秀吉に見いだされた三成は、生涯豊臣家に尽くしたのです。