立花宗茂(たちばなむねしげ)は、九州の有名な戦国武将の一人として挙げられます。
歴史マニアの中には、これほど義に厚い武将はいないということで人気が高いです。
しかし、世間一般的に見て、信長・秀吉の時代からやや遅れた世代であることや九州方面の活躍がドラマなどでクローズアップされていない事から、立花宗茂を知る方は少ないでしょう。
彼の経歴を見ると、非常に戦上手である事が分かります。数の劣勢を幾度もはねのけ勝利しています。
また、秀吉や家康は、宗茂の人柄に魅了され、徳川秀忠や徳川家光も頼りにしていました。
この記事では、秀吉に「無双」と言われた立花宗茂の人生を解説します。
立花宗茂|生涯年表
西暦 | 年齢 | 出来事 |
---|---|---|
1567年 | 1歳 | 豊後国で高橋紹運の長男として誕生する。 |
1581年 | 15歳 | 初陣。第2次太宰府観世音寺の戦いで堀江備前を討ち取る。立花道雪の娘の誾千代と姻を挙げて、立花家の婿養子となる。 |
1582年 | 16歳 | 岩戸の戦い。伏兵500人を連れ、笠興長(りゅうおきなが)隊を襲撃、撃破する。 |
1583年 | 17歳 | 吉原口防戦。吉原貞安を討ち取る功績を挙げる。許斐山城と龍徳城を陥落させる。 |
1584年 | 18歳 | 立花道雪、高橋紹運と筑後奪回戦で戦う。秋月種実の襲撃から、立花山城を死守する。 |
1585年 | 19歳 | 立花道雪が陣中で病死。立花家の家督を継ぎ立花家当主となる。 |
1586年 | 20歳 | 立花道雪の死で混乱する筑前国に、島津軍が侵攻してくる。高橋紹運が岩屋城の戦いにて守り切れず切腹する。宗茂は立花城を守りながら、、島津軍の首級を挙げ、高鳥居城を攻略、岩屋城、宝満城を奪還する。 |
1587年 | 21歳 | 大友しが豊臣秀吉の傘下に入り、宗茂は九州攻めで戦功を挙げる。この功績から柳川城の城主・秀吉の直臣となる。肥後一揆を平定する。 |
1590年 | 24歳 | 小田原征伐参戦。豊臣秀吉に「東の本多忠勝、西の立花宗茂」と褒めたたえられる。 |
1592年 | 26歳 | 文録の役参戦。小早川隆景の6番隊として参陣。 |
1597年 | 31歳 | 慶長の役参戦。加藤清正の救援などで活躍する。 |
1600年 | 34歳 | 関ヶ原の戦い。東軍から寝返るよう誘われるも拒絶。西軍として大津城の戦いに参戦、勝利するが関ケ原の戦いには間に合わず、柳川城で降伏。改易され浪人となる。 |
1602年 | 36歳 | 正室・誾千代が死去する。 |
1603年 | 37歳 | 江戸に向かい、蟄居の後、本多忠勝の推挙により、徳川家康の御書院番頭の他むつ棚倉の大名となる。 |
1614年 | 48歳 | 大坂冬の陣。この時家康が宗茂の寝返りを怖れ、懸命に説得したと言われる。 |
1615年 | 49歳 | 大阪夏の陣。2代将軍・徳川秀忠軍師、及び警固役を務める。 |
1620年 | 54歳 | 旧領の筑後国・柳川の大名に復帰。 |
1638年 | 72歳 | 島原の乱。総大将松平信綱の補佐として、数々の戦況の予知をして周囲を驚かす。 |
1642年 | 76歳 | 江戸柳原の藩邸にて生涯を終える。 |
立花宗茂|代表的な戦い
島津との攻防戦
立花宗茂は九州の大友氏の家臣、高橋紹運の子として生まれ、立花道雪に養子に出されます。元服して大友氏の家臣となりますが、この時代は島津氏と九州の覇権を争っていました。
1576年の耳川の戦いで、養父立花道雪が病死、1586年岩屋城の戦いで実父高橋紹運が籠城の末、討死します。宗茂は、立花城に籠城し、時として島津軍に奇襲をかけて占領された二つの城を取り戻しました。
ほどなくして、豊臣秀吉の援軍が到着すると、島津攻略の先鋒として大いに活躍し、島津の降伏に大きく貢献しました。
これにより、秀吉の直臣となり柳川8万石の大名に取り立てられました。
戦国時代でもかなり強いと言われる島津軍に対し、戦闘の多くを勝利していますので、立花宗茂の戦の実力はかなり高いものと評価できます。
文禄の役・慶長の役で大活躍
秀吉の直臣となり、小田原征伐の際には多くの大名・武将の前で本多忠勝とともに「東の本多忠勝、西の立花宗茂、東西無双」と褒めたたえました。
この頃は佐々成政が国人一揆を鎮圧できず敗戦必至だったところに、立花宗茂が救援に向かい一揆を鎮圧した事で、秀吉の評価もかなり高いものでした。
程なくして、宗茂も朝鮮出兵に参加しています。文禄・慶長の役で、多くの戦功を立てます。
文禄の役では、奇襲・同士討ち・釣り野伏などありとあらゆる戦術を駆使しますが、明軍の李如松との戦いでは苦戦を強いられます。立花宗茂の家臣を多く失いながらも勝利。
慶長の役では、最初は釜山の守備に配置されましたが、秀吉死後の撤退戦では加藤清正や小西行長を救出する手柄を立てます。
この時加藤清正の命を救ったことが、後の宗茂の苦難を救うこととなります。
秀吉への忠義を通す関ケ原の戦い
関ケ原の戦いの前に、家康からかなり良い条件で東軍参陣の誘いがありましたが、秀吉への恩義の為断りました。
東軍の京極高次がいる大津城を攻めますが、ここでも戦上手な面を見せます。
敵の夜襲を予見し、敵将3名を生け捕りにしたのです。
立花家の鉄砲隊の活躍で大津城は徐々に攻略されます。宗茂は京極高次に降伏するように矢文で知らせ、高次は宗茂の思いに感化され降伏しました。
しかし、時間がかかりすぎ、関ケ原の戦いには間に合いませんでした。
そこで、大阪城に進み、毛利輝元に徹底抗戦を進言しますが、輝元は動かずやむなく柳川に戻ります。
九州に戻る船には、島津義弘が乗っていました。島津と言えば実父高橋紹運を討った仇です。
宗茂の家臣たちは「ここで仇を討つべし」という気持ちを抑え、島津軍の護衛を引き受けて、義弘とは友誼(ゆうぎ)を結びました。
つまり心からの友となった訳です。
柳川へ帰った後、黒田如水、加藤清正、鍋島直茂が攻めてきました。宗茂自身は家康に教順の意を示しており城に残っていましたが、連絡ミスにより立花勢の先鋒が鍋島勢と戦を開始してしまいます。
宗茂の家臣が次々と討ち取られ周辺の城も落とされていきました。
黒田・加藤・鍋島軍が柳川城を包囲し、黒田如水と加藤清正が宗茂に降伏の説得をします。清正は慶長の役で宗茂に助け出されたことから、どうしても宗茂を救いたい一心がありました。
宗茂も説得に応じ、降伏することになります。戦いの後は、改易され浪人となります。そしてしばらくは加藤清正の元で客として扱われます。
立花宗茂の人物像が分かるエピソード
養父 立花道雪のスパルタ教育
立花道雪は初陣まもない宗茂と共に戦に参戦していました。
宗茂の働きを見て、道雪の娘誾千代の婿になってほしいと考え、渋る高橋紹運を何とか説得して、宗茂を婿養子にします。
婿になってからは、道雪の容赦の無いスパルタ教育が始まりました。宗茂が9歳の時、道雪と一緒に食事をしてた時の話です。
宗茂が鮎をむしって食べていた事を道雪に見られ「武士のやり方を知らない。女のようなやり方では役に立たぬ。」と怒られたそうです。
また、13歳の時には、道雪と一緒に歩いて栗のイガを踏んでしまいました。家臣に抜いてくれと言ったところ、由布源兵衛という家臣が逆にもっと強く押し込んだそうです。
泣きそうになりながら後ろを振り向くと、鬼の形相で道雪がにらんでおり、出そうになった涙が引っ込んだと言っています。
宗茂の後の功績を見ても、帝王学や戦略・戦術は徹底的に叩き込まれたと思われます。道雪は、宗茂を立派な後継者として育てていったことがうかがえます。
佐々成政救援と肥後国人一揆の鎮圧
富山の役で豊臣秀吉に降伏した佐々成政は、お伽驟衆を経て肥後の大名となりました。性急な検知を行い肥後国人の反感を買い一揆が勃発します。
一揆の規模が大きく成政では抑えられないばかりか敗北が濃厚となり、宗茂が兵糧を届ける役を与えられます。
兵糧を届ける道中で、敵の伏兵を察知し逆に利用して返り討ちにしました。
一揆を鎮圧し首謀者一族を捕らえますが、隈部一族12名は宗茂の計らいで「放し討ち」という方法で処罰されました。
この放し討ちは隈部12名と立花12名が真剣勝負を行う方法で、この時立花側も1名戦死しています。宗茂は、義を重んじる武将でしたので、隈部の名誉を重んじて、このような方法を取ったと言われています。
関ケ原後の浪人生活
関ケ原の戦いで、宗茂は改易され浪人となりました。加藤清正の食客を経て、京都に移った時の話です。
少数ながら家臣を養い、京都の生活は厳しいものだったと言われています。そこで生活費は肥後からの仕送りや家臣たちのアルバイトで食いつないでいました。
ある時、コメが足りないため雑炊として食事を出すと、宗茂は「汁かけ飯が食いたければ自分で汁をかけるから余計な事はするな」と怒りました。
この話は苦しかった時代を脚色して伝わった可能性がありますが、苦労していた事は間違いないでしょう。
浪人から大名へ、大阪の陣で大活躍
関ケ原の戦いでは、秀吉の恩に報いるため負けると分かっていて西軍に参加しました。
戦後、改易され浪人となりましたが、人となりを惜しんで加藤清正や前田利長は家臣に迎えようと誘いますが、断ります。
清正は慶長の役の恩があり、食客として宗茂とその家臣を迎えています。
程なくして、宗茂は京都に上り、その後本多忠勝の世話により江戸に行きます。
これは、本多忠勝が徳川家康に家臣にするよう強く勧めたことがあり、最初は蟄居という形で宝祥寺に住みます。
そして御書院番頭という役職で、実質家康の親衛隊長となります。宗茂の浪人生活は、加藤清正と本多忠勝の働きで乗り越える事が出来ました。
その後、大阪の陣が勃発します。
この時、家康は経験と能力が不足している秀忠を不安に思い、その補佐として経験豊富な宗茂を付けました。
そして期待通りの働きで秀忠を補佐します。
大阪城の状況を的確に把握し、行動を予見して見事当てています。
この宗茂の活躍が、大阪の陣での勝利につながりました。
この功績により再び柳川の大名に復帰しました。柳川の領民は大いに喜んだとの事です。
昨日の敵は今日の友。島津義弘との交誼
宗茂が立派な性格をしているエピソードとしては、関ケ原の戦い後の島津義弘とのエピソードに見られます。
関ケ原の戦いの後、九州に戻る船で島津義弘と一緒に帰る事になりました。島津は、宗茂にとって実父の仇になります。
義弘は「島津の退き口」でボロボロの状態で、立花家の家臣は「丁度いい機会なので殺っちゃいましょう。」と宗茂に進言します。
しかし、宗茂は「ここで殺ったら武士の誇りに傷がつく。」と言って取り合いませんでした。
それどころか、「薩摩まで護衛しますよ。」と言って護衛を買って出ます。
そして、「島津殿、友達になりましょう。」と言って仲良くなります。
この事で黒田如水・加藤清正・鍋島直茂に柳川城を攻められたときに、この時の恩返しと義弘は援軍を出しています。
このエピソードは、宗茂の懐の大きさを教えてくれます。
家康・秀忠・家光に頼りにされる
宗茂は、家康・秀忠・家光の三代にわたり頼られています。
家康は、宗茂の有能さを知っているだけに、敵に回すと恐ろしいと思っていた節があります。それで味方側に着けるためなかり腐心していたようです。
秀忠は関ケ原の戦いの遅参など、家康には戦いでは頼りないと思われており、本人も自覚があったようです。関ケ原の戦いでは補佐をしており、その後は相伴衆という相談役についています。
家光の時は島原の乱が勃発します。家光とその直臣は戦いの経験が無いか少なく、経験豊富な宗茂に頼るほかありませんでした。
この時も的確な助言を与え、老齢ながら甲冑を着込み戦場に立ち戦功も立てています。さらに鎮圧後は総大将の松平信綱のフォローも忘れず、家光に取り成して信綱の拝謁が許されました。
立花宗茂の人生に深く関わった人物
高橋紹運
高橋紹運は、宗茂の実父です。文武両道の武人であり、私利私欲がなかったと伝わっています。
ルイス・フロイスは「稀代の名将」と褒めたたえていました。立花道雪とは、上司・部下の関係で、両者を風神・雷神と称したとのことです。
岩屋城の戦いでは、宗茂は立花城を守備しており、出来るだけ島津の戦力を削る目論見もあったと思われ、島津の降伏勧告を頑として拒否し最後は切腹して果てました。
しかし、島津軍の戦力削減と足止めには十分な功績があり、豊臣軍の到着が間に合い、結果として宗茂を救いました。
立花道雪
立花道雪は、宗茂の養父です。大友宗麟の家臣であり宿老でした。宗茂が養子になった後は立花家当主にする為に、道雪は宗茂をスパルタ教育で育てました。
道雪は禅宗に傾倒しており、義を尊び武士の鑑と称されました。
武略に優れ、武田信玄が会いたがっていたと伝えられるほどです。
孫子の兵法にかなり精通しており、自ら総大将となった戦いではほぼ無敗でした。
宗茂は、道雪の教えを徹底的に叩き込まれたことで、孫子に通じた優れた武将に育ちました。
本多忠勝
立花宗茂と本多忠勝は一見接点がなさそうに見えます。
豊臣秀吉が小田原征伐の際に、皆の前で二人を呼びだし、「西の無双立花宗茂、東の無双本多忠勝」と褒めたたえました。
この頃からお互い意識していたかは定かではありませんが、関ケ原の戦いの後、浪人となった立花宗茂を家臣にするように強く推薦していたのが本多忠勝です。
家康も関ケ原の戦い以前から徳川陣営に引き込みたいと考えていたようで、高い報酬でスカウトしたのですが、秀吉への義理があり実現しませんでした。
本多忠勝の熱心な説得から、立花宗茂は大名に返り咲きます。
本多忠勝以外に、加藤清正や前田利長など同世代の大名も救いの手を差し伸べています。