森蘭丸は織田信長の側近であり、本能寺の変で信長が最後を迎える際、そばにいたとされる「小姓」(武将等に仕えた世話係)です。映画やゲームなどでは必ず「美少年」として描かれており、複数のイケメン俳優さんが演じられています。

蘭丸という通称がよく知られていますが、当時の文書などによると「乱」「乱法師」と呼ばれていたようです。また本名については「長貞」「長康」と伝えられています。

蘭丸の信長への忠誠心は非常に強く、信長本人もその真摯で実直な働きに絶大な信頼を寄せていました。信長にとっては何事にも即座に対応してくれる秘書のような存在だったようです。

今回はそんな森蘭丸がどのようにして亡くなったのか、また、蘭丸の生涯についてお伝えします。

森蘭丸の死因は「討死」

森蘭丸は謀反を起こした明智光秀により、本能寺で信長に仕えていた2人の弟「力丸」「坊丸」と共に「討死」しました。

織田信長は自軍に中国遠征の準備をして待機と命じ、蘭丸ら小姓や数名の家臣を連れ安土から上洛、京都に到着します。茶道具の名器などを持ちこんでおり、茶会なども開いていました。

明智光秀は13,000人という数で丹羽亀山城を出発すると、翌日の御前4時頃に本能寺を包囲します。明智勢が本能寺の中に入ってきた際、はじめのうちは小姓らがけんかでもしているのかと思っていたようですが、そのうち謀反だと気が付きました。信長は「さては謀反だな。誰のしわざか」と蘭丸に尋ねたといいます。

蘭丸は小姓であり戦の経験はありません。文官という職種だったため武道を少し習ってはいたものの、本物の戦に通用するようなものではなかったでしょう。それでも最後まで、信長のそばで必死に戦いました。

しかし軍勢のいない信長たちになす術はなく、信長・力丸・坊丸、そして蘭丸は本能寺で討死したのです。

森蘭丸を打ち取ったのは「安田国継」

森蘭丸は信長らと共に本能寺で討死したのですが、蘭丸を打ち取ったのは「安田国継」です。ある書物に、蘭丸を討った際の話が記述されていました。

安田国継は後に「天野源右衛門(あまの げんえもん」と名を変えています。その天野源右衛門覚書という書物の中に、森蘭丸を討った際のことが書かれているのです。蘭丸は白装束で髪もきれいに結われた美しい姿だったと書かれています。ただこの書物は江戸時代幕末に書かれた創作物ということがわかっています。

しかし本能寺の変に安田国継が参戦していたことはわかっていますので、森蘭丸の最後を本当にみていた可能性もあるでしょう。

森蘭丸が討死した本能寺の変

森蘭丸が討死した「本能寺の変」は、もっとも有名な「謀反」です。当時毛利氏と戦っていた秀吉は信長に援軍の要請を出しました。信長はそれを受け秀吉の元に向かう途中、京都の本能寺に泊まります。

信長のもとには森蘭丸の弟2名、他使用人や信長が招いた客人数名がいるだけでした。夜、騒々しさに目を覚ました信長や蘭丸はすでに大勢の軍勢に囲まれていました。蘭丸は光秀の謀反を信長に伝えると、信長を守ろうと必死に戦ったといいます。

しかしどうすることもできず、蘭丸は主君信長と共に本能寺において生涯を終えたのです。

謀反のきっかけ?森蘭丸と「近江坂本6万石」

明智光秀の謀反のきっかけは、「近江坂本6万石」だといわれています。あるとき信長は蘭丸に褒美を与えたいと思いましたが、蘭丸は「褒美などいりません」と欲しがりませんでした。そこで信長は自分の掌に欲しいものを書いて見せ合おうといいます。

2人は掌に望みを書いて互いに見せ合いました。すると2人とも掌には「近江坂本6万石」と書かれていたのです。この近江坂本は蘭丸の父である森可成の元の領地でした。父の墓標もこの地にありましたが、当時この地を領地としていたのが明智光秀だったのです。つまり蘭丸の願いは、元は父の領地だった近江坂本を取り戻すことでした。

これをひそかに聞いていた明智光秀は、信長に強い疑念を抱くようになったといわれています。

織田家の重鎮「明智光秀」の頭を打ったのは森蘭丸

明智光秀が謀反を起こした理由についてはいろいろな説がありますが、徳川家康を招いた際の出来事についても、原因の一端となったのではといわれています。信長と同盟を結んでいた徳川家康を安土に招くことになり、その接待役として選ばれたのが明智光秀でした。

徳川家康の宿泊先となる大宝院に急ぎで御殿を用意し、壁には絵を、柱には彫刻を施し、庭には珍しい植物などを植え、警備も怠りなく行ったといいます。もちろん光秀としては信長に恥をかかせないようにと用意したのですが、信長はこれをみてあきれてしまいました。

武将である家康を招くのにこれほどのものにしたら、朝廷を招く際にはどんな高価な対応が必要となるのか!と光秀を叱りつけます。そして信長は周囲の者に「光秀の頭を打て」と命じます。しかし光秀は織田の重鎮です。誰も行動に移せずにいたところ、蘭丸が鉄扇でびしっと光秀の頭を打ちました。

蘭丸としてはこのまま何もせずにいたら、殿(信長)が怒って刀を抜きかねないと思い行動したようです。

森蘭丸は明智光秀の謀反を察知していた

明智光秀は織田信長にひどく怒られ、しかも小姓から叩かれるという仕打ちに「大きな恩義があるため謀反など到底考えたこともありませんが、この仕打ちはあんまりです」と泣いたといいます。これを聞いた蘭丸は「謀反を起こす気持ちがあるのでは?」と信長に訴えたようです。

しかし信長は「ありえない」といい、毛利と戦っている秀吉のところへどんな応戦をするか作戦をたて始めました。毛利と戦う秀吉は中国地方にいたため、信長はまず援軍として光秀を送る計画を立て、後から信長も向かう手はずでした。

その後、蘭丸の予想通り、光秀は中国地方に向かうことなく「敵は本能寺にあり」と自軍を本能寺に向かわせたのです。蘭丸の忠告を信長が真摯に聞いていたら、信長は本能寺の変で倒れることもなかったでしょう。

織田信長に献身的に仕えた「森蘭丸」の生涯

森蘭丸は尾張葉栗郡で「森可成(もりよしなり)」と正室の「盈(えい)」の三男として誕生します。父である可成は清和源氏の「源義隆」の子孫であり、「攻めの三左」ともいわれた槍の使い手でした。1554年に織田信長の客将となり、若い信長をサポートした武将です。

蘭丸は容姿端麗な美少年であったといわれています。また当時の史実によると、蘭丸は品行方正で実直また武芸にも学問にも優れた素晴らしい若者だったと書かれています。これは織田家に仕えていた父「可成」が「信長様をしっかり支えられるように」と、常に厳しく英才教育を施していたためです。

蘭丸は父の教えに背くことなく、13歳になると小姓として信長に仕えるようになりました。

織田信長に仕える優秀な秘書だった森蘭丸

信長の小姓となった蘭丸は、すぐに信長のそばで働き始めました。小姓は主人の身の回りの世話のほか、取次・検使・副状発給・使者・来客の対応など、その業務は多岐にわたります。信長のもとで働き始めたころは、織田の勢いが増していた時ですから、かなり忙しかったはずです。

蘭丸は奏者として「武家伝奏」という武家の要請を朝廷に伝える役割もありました。たくさんの業務をこなす蘭丸は、織田信長にとって他のものに変えられない秘書でもあったのです。

もう1人、信長には「万見仙千代(まんみせんちよ)」という小姓がおり、戦の場に派遣されこちらも活躍していたのですが、荒木村重の謀反の際、戦死してしまいました。万見仙人千代が亡くなったことで、万見仙千代の仕事も蘭丸がするようになります。信長はこうした献身的な働きをする蘭丸をかなり信頼していたようです。

森蘭丸は500石の大名であり織田信長の使者だった

蘭丸は小姓という身分でしたが、信長は蘭丸の働きぶりに対し、近江国内の500石を与えています。つまり蘭丸は小姓でありながら「大名」となったのです。

蘭丸に対する信長の信頼は強く、誰のいうことも聞かない信長が蘭丸の進言には耳を傾け素直に受け入れたといいます。

信長から脇差を預かり3人の息子に送り届け、織田信忠から伊勢神宮への寄進に関する連絡などを信長に伝えるなど、重要な仕事を任されていました。また紀州征伐の際の雑賀攻めで活躍した「斎藤六大夫」への褒美を渡したのも蘭丸ですし、元武田家家臣の「小笠原信嶺」があいさつに来た際、朱印状を与えたのも蘭丸です。

蘭丸は織田信長の「使者」として、重要な働きをしていたのです。

本能寺の変にて討死

常に信長の傍にいた蘭丸は、信長がその命を落とした「本能寺」でも傍に仕えていました。光秀が謀反をするのではないかと疑心していた蘭丸の不安が的中し、小姓や使用人、100名ほどの兵しかいない本能寺に攻め込まれ、織田信長の人生は終わったのです。

光秀が大軍を率いて本能寺を取り囲んだ時、蘭丸を含めたった100名ほどの兵しかいない状態で、武器すら満足にそろっていませんでした。

蘭丸は鎧など着ける時間もないまま槍を持ち戦いましたが、安田国継により切り殺されました。この時蘭丸は18歳という若さであったと伝えられています。

森蘭丸を偲ぶ場所

 

織田信長のために忠義を尽くした森蘭丸は、京都府京都市にある「阿弥陀寺」に眠っています。お寺を現在の住所に移転した際、120余りのお墓も移転したと伝えられているそうです。本能寺で亡くなった信長・信忠の遺骨は清玉上人が持ち帰り葬ったといわれています。ここに蘭丸も眠っているのです。

京都観光オフィシャルサイト 信長忌 寺町・阿弥陀寺

また蘭丸のお墓は岐阜県可児市の「可成寺」にも建立されています。このお寺は蘭丸の兄の「長可(ながよし)」が父「可成」を弔うために建立したもので、森家の菩提寺です。こちらには父の可成、兄の長可、蘭丸のほか、坊丸と力丸のお墓もあります。

岐阜県可児市 可成寺

岐阜県の可児市にある「戦国山城ミュージアム」では、蘭丸や可成、長可に関する展示を見ることができます。戦国時代の鎧や道具などが置かれているので、蘭丸が生きていた当時に想いを馳せることができそうです。

戦国山城ミュージアム