織田四天王の一人であり織田信長に忠義を尽くした武将「柴田勝家」は、情に厚い豪傑でした。織田信秀の家臣から、信長の弟である織田信行の家老となった頃は、兄の信長とは違い礼儀正しく有能であるといわれていた信行に尽くしており、織田信長暗殺「稲生の戦い」を企てます。

信長暗殺を企てた勝家と「林秀貞」「林道具」は、1,700人の軍勢で信長を襲いましたが、半数の軍勢で応戦した信長軍が圧勝しました。通常であれば勝家は首を討たれるところですが、信長の実母「土田御前」の懇願により何とか命拾いしたと伝えられています。

信長の家臣となった勝家は織田信長に忠誠を誓い、その思いを捨てることなく、豊臣秀吉に追い込まれ自害するまで忠義を尽くしました。今回はそんな柴田勝家の「死因」を紹介します。

柴田勝家の死因は「自害」

明智光秀の謀反により、柴田勝家の主君であった織田信長が死去し、羽柴秀吉が仇を討った山崎の戦の後に行われたのが、「清須会議」でした。

尾張国の清州上で行われた清須会議は、柴田勝家・羽柴秀吉・丹羽長秀・池田恒興らが集い、信長の後継者並びに遺領の配分を決める会議でした。勝家は織田信孝を推し、羽柴秀吉は三法師を推しており、激しく対立しましたが、最終的に三法師が跡継ぎに決まります。

また秀吉が信長の葬儀を信雄・信孝・勝家を排除して挙行したこともあり、勝家と秀吉は深い確執状態にありました。このような状態の中で起こった「賤ケ岳の戦い」において、前田利家の裏切りもあり秀吉軍に追い込まれ、越前まで退去した勝家は最愛の妻お市と共に自害したのです。

死を覚悟して開いた「酒宴」

秀吉に追い込まれ越前の北庄城に退去した勝家は、死を覚悟し「酒宴」を開いたと伝えられています。数万という敵の軍勢に囲まれた状態で、すでに負けは確定していました。その中で勝家は天守に入り、上下関係をいとわず酒宴遊興を楽しんだといわれています。

秀吉軍に囲まれていながら、主君であった織田信長から拝領した名峰を並べ、楽器を鳴らし賑やかな酒宴を開いたのです。外にいた秀吉らにもこうした酒宴の楽し気な音が聞こえていたのでしょう。

信長の最精鋭であった勝家はいつも先鋒隊で、勇猛果敢に敵陣に切り込んだといわれています。死を目の前に悠々と宴会を開く勝家に対し、秀吉は感服したそうです。武将としてのプライドと生き様を、最後まで見せてくれた勝家でした。

お市と共に散った柴田勝家の壮絶な最後

賤ケ岳の戦いから北庄城に戻り、その酒宴を共にしていたのは家臣だけではなく、最愛の妻である「お市の方」も一緒でした。勝家は忠義を尽くした主君「織田信長」の妹であり、美しく憧れの人であったお市の方にを三人の娘と共に落ち延びてほしいと願います。

お市の方は前夫「浅井長政」が攻め込まれた際、三人の娘と共に落ち延びました。しかし今度ばかりは夫「勝家」と共に逝くと誓っていたのではないかと思います。三人の娘は秀吉に託し、いよいよ落城となった時、勝家は最愛の妻を刺し殺しました。

そしてお市を刺したその刀で自分の左わき腹を刺し、背骨に引き付けるように切り裂くと、胸から下腹部を深く断ち切りました。さらに絶叫しながら自らの五臓六腑を掻き出すと、側近に首を落とさせこの世を去ったといいます。

柴田勝家の死後

北庄城陥落|三姉妹の行方と豊臣政権

北庄城は羽柴秀吉により攻め落とされ、勝家とその妻お市の方は場内で命を絶ちました。お市の3人の娘たちは秀吉に保護されます。娘たちにとっては実父「浅井長政」から2度目の主家滅亡であり、今回は母も亡くなりました。

仇ともいえる秀吉に引き取られた三姉妹は、安土城に入ります。一方、勝家の死後秀吉は、政治の拠点とする大阪城の築城を開始し、全国の有力な武将をどんどん取り込みました。九州平定から小田原合戦を経て天下統一を果たした秀吉に最も深く関わったのが、三姉妹のうちの長女「茶々」です。

長女の茶々は実父と義父、そして母の仇である秀吉の側室となり、後の秀頼を生みました。秀吉の死後は秀頼の後見人として大阪城に入り、政治の実権を握っていたともいわれています。しかし最終的には秀頼と共に大阪城で自害しており、3度の落城を目にした壮絶な人生でした。

次女のお初は秀吉に勧められ京極高次と結婚しており、三女のお江は、「佐治一成」と結婚・離縁し、羽柴秀勝と結婚しましたが病死され、最終的に徳川家康の三男秀忠と結婚しました。

柴田勝家と首無し行列の伝説

柴田勝家は北庄城で無念の死を遂げた後、旧暦の4月24日の夜になると、落ち武者行列が現れるという伝説があります。4月24日のみではなく、ほととぎすが鳴く頃は毎晩現れるという説もあったようです。(橋の架け替えが行われてから見ることはなくなった)

足羽川に架かっている九十九橋がこの怪異の場所でした。4月24日丑の刻、九十九橋付近から「首無しの武者行列」が現れるというのです。この行列を見たものは死ぬとされ、この周辺に暮らす人たちは夕刻になると戸締りをして、誰も外に出なかったといわれています。

4月24日は北庄城で秀吉に追い込まれた勝家がお市の方と共に自害した日です。また武者行列が現れる九十九橋は、勝家が架けさせた橋であり愛着もあったことから、ここに現れるのだろうといわれています。

柴田勝家が自害に至るまでの生涯|義理人情の武将

柴田勝家は忠義に熱く、義理人情の武将だったと伝えられています。織田家に仕え戦に明け暮れた武将は、勇猛果敢な武将として後世に語り継がれました。織田家一筋に生きた宿老「柴田勝家」は、北庄城で秀吉に追い込まれ自害するまで、どのような生涯を生きたのでしょうか。

柴田勝家の生涯について紹介します。

織田信行を見限り織田信長の家臣へ

尾張国で生まれた柴田勝家の出自については、柴田勝義の子とされていますが、確実なものではありません。士豪の家の出ではないかともいわれています。

勝家といえば織田信長の家臣として有名ですが、元々は信長の父である「信秀」の家臣でしたが、信秀が逝去し信長の弟である「信行」の家老となりました。

当時信長はうつけといわれていたこともあり、信行の方が後継者になるべきと考えた勝家は、信行を後継者にしようと暗躍し、近臣の林秀貞と共に信長に攻め入ったのです。勝家の兵の数の方が多かったにも関わらず、信長の戦略により勝家は大敗し、通常であれば首を切られるところでした。

しかし信長の実母である「土田御前」が赦免を強く願い出てくれたおかげで、勝家は命を救われます。その後、信行を見限った勝家は信長の忠実な家臣となったのです。

柴田勝家は領主として信頼されていた

柴田勝家というとまっすぐで豪傑で、どちらかというと政治的な能力はないのではないかと思っている人も多いです。しかし勝家は政治的な能力もいかんなく発揮しています。

信長と共に上洛した1568年、信長の重臣として地位を確固たるものとした勝家は、姉川の戦い、比叡山の焼き討ち、越前一向一揆の征伐に貢献したこともあり、信長から北陸方面軍総帥に任命されました。1576年には越前国北庄の領地を与えられ、北庄城を築城します。さらに勝家が滅ぼした朝倉氏の拠点となっていた一乗谷の商人を北庄に招きました。

こうして商人、社寺の人たちを厚くもてなしたことで「領主」として信頼を得ます。勝家は刀狩りも実施し、治安を維持するために「北庄法度」も発令しました。その後、加賀の一向一揆を制圧したことで、勝家は織田家の筆頭家老の地位を得たのです。

織田信長の敵討ちに間に合わなかった柴田勝家

柴田勝家が越中国の上杉氏の拠点となっていた「魚津城」と「松倉城」を攻めているとき、勝家にとって思いもよらない事態が発生しました。明智光秀が謀反を起こし、京都の本能寺にて主君織田信長が自害した「本能寺の変」です。

勝家が信長の自害を知ったのは本能寺の変が起きた4日後の夜でした。当時は現代のように連絡手段が手紙か人の口ですから、無理もありません。それでも勝家は上杉氏への軍勢を引き上げ光秀討伐に向けて準備をしていました。

しかしこの異変を知った上杉氏が攻撃を仕掛けてきたため、勝家は身動きが取れなくなってしまったのです。身動きが取れなかった勝家に対し、秀吉は「中国大返し」により光秀を討伐します。勝家は忠義を誓った信長の仇討に間に合いませんでした。

「清須会議」と「お市の方」との再婚

織田信長が本能寺の変で亡くなり、山崎の戦いで秀吉が光秀を追い込み、明智光秀は追い込まれた先で落ち武者狩りにあい亡くなったとされています。信長亡き後、急ぎ、信長の後継者を決めなければなりません。そこで行われたのが清須会議でした。

勝家は信長の三男「信孝」を推挙し、秀吉はまだ幼児であった信長の嫡孫「三法師」を擁立します。勝家と秀吉は対立しますが、信長の仇討「山崎の戦」に最も早く到着し活躍したのは秀吉です。清須会議では秀吉の意見が優先され、信長の後継者は「三法師」となりました。

勝家は主君として常に忠誠を誓い仕えてきた信長に対し、仇討ちに間に合わなかったことも含め、この跡継ぎの決定には歯ぎしりしたことでしょう。しかし、勝家はずっと憧れていたお市の方と再婚が決まります。お市の方については秀吉もずっと憧れていたといいますから、お市の方との婚姻をめぐる戦いについては、勝家に軍配が上がりました。

柴田勝家はどんな人?

戦に明け暮れた豪傑「柴田勝家」は、織田家の家臣として忠義を尽くした武将です。主君織田信長の死からたった10か月後、秀吉により攻め滅ぼされた柴田勝家ですが、最後まで己を貫き通しました。

柴田勝家とはどんな人だったのでしょう。

柴田勝家は一生を軍事に費やし若手からも好かれた親分肌

柴田勝家を一言でいうと、「不器用でまっすぐ」な人です。猪突猛進的なところがあり、信長の元で戦に挑むと先鋒隊として「かかれー!!」と掛け声をあげることから、「かかれ柴田」といわれたという有名な話も残っています。

若手からも「親父殿」と呼び親しまれ、最終的には賤ケ岳の戦いで裏切られてしまいますが、前田利家も勝家のことを「親父殿」と呼んでいました。

ひとたび戦に参戦すると敵に対し勇猛果敢に切りかかり、ある戦では30人もの首を打ち取ったといわれています。ただし無作法者で教養に浅かった勝家は、信長の茶会に一度も出たことがありませんでした。

柴田勝家と豊臣秀吉は犬猿の仲

柴田勝家はお市の方と結婚しましたが、実は豊臣秀吉もお市の方に想いを寄せていたといわれています。江戸時代前期後半あたりの史料「村井重頼覚書」には、以下のようなことが書かれています。

  • 勝家も秀吉もお市の方に想いを寄せている
  • 秀吉はすでに妻がいるが勝家にはいない
  • 秀吉は妻がいるのにお市の方を侍女にするおつもりか
  • 勝家は若い頃から織田家に忠功の働きがある
  • これらの主張を踏まえてお市の方が勝家との結婚を決めた

清須会議で信長の後継者決めが行わる際、勝家を味方につけたい信孝が勝家をおし、その考えをお市の方も了承したということです。これらが本当の話であれば、跡継ぎは秀吉の思う通りだったが、お市の方を我が物にしたいという戦いは、勝家の勝利だったわけです。勝家と秀吉は犬猿の仲だったといってもいいでしょう。

こうした史料については、憶測で書かれたものではないかという意見があります。ただどちらと結婚したとしても、落城を経験していたお市の方にとって、結婚することで幸せになれるとは思っていなかったかもしれません。