徳川秀忠は、安土桃山時代から江戸時代にかけての江戸幕府の武将です。
徳川秀忠は、徳川家康の三男として誕生します。
三男が跡継ぎになることはあまりないのですが、長男である信康は切腹、次男の秀康は豊臣秀吉の養子となっているため、三男である秀忠が跡継ぎになることになったのです。
父である徳川家康に比べて目立たない人物とされがちですが、江戸幕府の基盤を固め、家康の遺志を継いで幕府の統治を安定させた人物です。
幕府の体制が強固になったことで、後の徳川家光の時代にさらなる繁栄を迎える基礎が築かれました。
そんな父の遺志を継いで幕府の統治を安定させるという偉業を成し遂げた徳川秀忠の名言を11選を紹介します。
徳川秀忠の短い名言
この章では、徳川秀忠が残した短い名言を3つ紹介します。
短い中にも、武将としての強さを感じられる名言なので、徳川秀忠の漢らしさを読み取ることができるでしょう。
一か八かを迷わず決断せよ
この名言は、重大な決断を迫られたときに躊躇せずに即断することの重要性を説いています。
「一か八か」という言葉は、成功か失敗かの結果がはっきりしないリスクの高い状況のことです。
つまり、リスクを恐れずに決断力を持つことを強調しています。
幕府を安定させるための重要な改革や政策が必要だったため、徳川秀忠には、迅速かつ決断力のある行動が求められたのです。
この名言は、彼自身の経験から学んだ教訓として後世に伝えたものと思われます。
全てを知るなかれ、大切なものを忘れるな
この名言は、すべての情報や知識を把握することはできないが、本当に重要なものを見失わないことが大切であるという意味です。
全てを知ろうとするよりも、優先順位をつけて重要なことに集中することが重要であると説いています。
徳川秀忠の統治時代には、多くの情報や事柄が存在し、そのすべてを把握するのは困難でした。
しかし、幕府を運営する上で本当に大切なこと、例えば忠義、民衆の幸福、国家の安定などを見失わないことが重要です。
徳川秀忠は、この原則を守ることで、効率的な統治を実現しようとしました。
人間はお互いに助け合うべきだ
この名言は、人間同士が助け合うことの重要性を示しています。
社会は相互扶助の精神に基づいて成り立つべきであり、個人の利益だけでなく、共同体全体の幸福を追求することが大切であると説いています。
徳川秀忠は、江戸幕府の安定と繁栄を築くために、家臣や民衆との協力関係を重視しました。
社会の安定と繁栄は、個々の努力だけではなく、全体の協力によって達成されると信じていたのです。
この考え方は、徳川秀忠が幕府のリーダーとして成功するための基本的な哲学となり、また後世にも重要な教訓として伝えられました。
徳川秀忠の部下に対する名言
徳川秀忠の部下に対する態度は、厳格な規律や忠誠心の重視、慎重かつ公正な判断をしていたと言われています。
さらに教育の支援、そして相互扶助の精神という要素で構成されていました。
これらの態度は、彼の統治哲学とリーダーシップスタイルを含んでいて、名言にもそれが表されています。
人を用うるに、過失を以てこれを棄つることなかれよろしくその自新を許すべし
この名言は、「人を使うとき、過ちを犯したからといってすぐにその人を捨てることはしないで、その人が改めることを許すべきだ」という意味です。
過ちを犯しても、その人が改善しようとする姿勢を評価し、チャンスを与えることの重要性を説いています。
徳川秀忠は、幕府の安定と繁栄を築くために、多くの人材を適切に活用する必要がありました。
過ちを犯した者にも改める機会を与えることで、人材を育成し、組織全体の力を強化することを重視したのです。
この寛容な態度は、部下に対する信頼と期待を示し、長期的な人材育成の方針を反映しています。
大事ない、お前が予を大事に想ってくれながら誘導していたのは分かっていた、痛いとこもないし大丈夫だ
この名言は、部下や側近に対して「心配する必要はない、あなたが私を大切に思い、導いてくれているのはわかっている。痛みもなく大丈夫だ」と慰め、感謝の意を示しています。
部下の忠誠心や心配りに対する理解と感謝を感じとることができるでしょう。
徳川秀忠のこの言葉は、部下に対する理解と感謝の気持ちを伝えることで、信頼関係を深めようとしたものです。
リーダーとしての思いやりと感謝の姿勢が、組織の結束力を高めることを意図していたといえます。
御奉公然しかるべからず
この名言は、「奉公する際には、ただ忠実に仕えるだけではなく、心からの奉仕が求められる」という意味です。
形式的な忠誠だけではなく、真心を込めて奉仕することの重要性や必要性を示しています。
部下に対して、真心を持って忠誠を尽くすことを求め、それが組織全体の強化につながると信じていました。
この姿勢は、部下に対する信頼と期待を示し、真摯な態度での奉公を促すものです。
徳川秀忠の性格が分かる名言
徳川秀忠は、慎重で穏やか、そして思慮深い性格でした。
父・徳川家康の影響を受け、徹底的に安定を重視し、組織の規律と秩序を保つことに努めます。
また、寛容で公正な態度を持っている様子が名言からも知ることができます。
余がこれを拝借し、取り次いで、そなたに下賜してやろう越中(忠興)のやつもまさか異議は申すまい
この名言は、徳川秀忠があるものを借りて、それを仲介して部下に与えようとしていることを示しています。
「越中のやつ」は細川忠興を指しており、彼もこれに異議を唱えることはないだろうという意味です。
小倉藩主細川忠興は父・幽斎譲りの脇差「大三原」を愛刀としていて、それを嫡子忠利が所望しても頑として与えませんでした。
この事情は徳川秀忠の耳にも及んでおり、ある年、細川父子と共に浅草川に出かけて、細川忠興にも一緒に川で水を浴びるように誘います。
細川忠興も、水浴びとなれば、大三原を腰から外さざるを得ません。
徳川秀忠は、細川忠興より先に水浴びを済ませ、川辺に置かれていた大三原を奪い取ると嫡子忠利に「余がこれを拝借し、取り次いで、そなたに下賜してやろう。越中(忠興)のやつもまさか異議は申すまい」と大三原を忠利に与えます。
このときのやりとりは実は細川忠興にも聞こえていましたが、将軍の声には逆らえず、しぶしぶ従ったという背景がある名言なのです。
揺れは強いが壁や屋根が壊れるほどではないから動かない方が安全
この名言は、地震などの危機的状況において冷静に対処することの重要性をおしえてくれています。
慌てて動くことでかえって危険にさらされる可能性があるため、冷静にその場に留まる方が安全であるということです。
特に地震などの自然災害が多い日本において、このような冷静な対処法を部下や民衆に伝えることは、被害を最小限に抑えるために重要でした。
この名言は、危機管理の一環として、冷静な判断を促すために残されたものです。
葬儀・法会とも倹約を旨とし、霊牌の他新しく作るべからず
この名言は、葬儀や法要において節約を心掛けるべきであり、新たに霊牌(位牌)を作ることは避けるべきだという意味です。
無駄な出費を避け、質素な生活をするような考え方を示しています。
徳川秀忠は、江戸幕府の財政を健全に保つために、質素倹約を推奨しました。
徳川秀忠の時代には、無駄な贅沢や浪費が財政に悪影響を及ぼすことを防ぐため、家臣や民衆に対してもこの方針を徹底させています。
葬儀や法要などの儀式も例外ではなく、無駄な出費を抑えることで、全体の財政健全化を図ったのです。
徳川秀忠の政治に関する名言
徳川秀忠の政治の考え方は、安定と秩序を重視し、厳格な法制度を整備することで幕府の権威を強化することにありました。
また、寛容な態度で過ちを許し、人材を育成することも重視しています。
その徳川秀忠と政治の考え方について名言から読み解いていきましょう。
神罰を畏れぬ者はいずれ国法をも軽んじて犯すに違いないそれでは天下の政道が成り立たぬ。
この名言は、「神の罰を恐れない者は、やがて国家の法律も軽んじて破るようになるだろう。それでは、国家の統治が成り立たなくなる」という意味です。
つまり、宗教的な道徳や倫理を軽視する者は、法律や社会のルールも軽視する傾向があり、これが社会の秩序を乱す原因になるとしています。
徳川秀忠は、宗教的な道徳や倫理が法律や社会の規範を支える基盤であるとして、それを無視することが社会の崩壊につながると考えていました。
この名言を通じて、宗教的・道徳的な価値観を尊重し、法を守る姿勢を奨励したのです。
すべて軍陣などに臨みて面白しとだに思えば、恐ろしきとこも失せて、自ら計策も出てくるなれ
この名言は、「軍事行動や戦場において、興味深いとさえ思えば、恐怖も消え、自ら戦略が生まれてくる」という教えです。
戦場での恐怖を乗り越えるためには、積極的な興味や好奇心を持つことが重要であり、それが自然と創造的な戦略を生む助けになるとしています。
徳川秀忠のこの言葉は、戦場での精神的な強さと創造力を強調し、武士たちに対して恐怖を克服し、積極的に戦略を考える姿勢を促すために残されたものです。