戦国時代は武将たちにとって「死と隣り合わせ」な日々だったと思いますが、それは同じ時代に生きた女性も同じです。いえ、女性こそ「理不尽な死」を受け入れていたかもしれません。戦国時代の女性は人質となり、政治的な結婚を断ることもできず、武将たちの考え1つで運命が大きく変わる、そんな生活を送っていました。

茶々はそんな厳しい戦国時代に生まれ、波乱万丈という言葉よりもさらに壮絶な人生を送りました。

豊臣秀吉によって、実父で「浅井長政」、義父「柴田勝家」そして実の母である「お市の方」を亡くし、茶々にとって「仇相手」となる秀吉の側室になるという屈辱も味わっています。

3度、落城を経験した茶々の人生は、どの様な人生だったのでしょうか。

今回は茶々はどのようにして亡くなったのか、またその壮絶な生涯について紹介します。

茶々の死因は「自害」

茶々の死因は「自害」です。豊臣秀吉が亡くなり、豊臣の家督を継いだ息子の「豊臣秀頼」と共に、大阪城内でその壮絶な生涯を終えました。

1600年、天下分け目の決戦といわれた「関ヶ原の戦い」において勝利した徳川家康は、豊臣家よりも巨大な力を手に入れます。関ヶ原の戦いでは淀殿の兄「万福丸」が処刑され、この戦いの後、徳川家康は征夷大将軍に就任しました。

江戸幕府を開いた家康は、淀殿と秀頼に服従するよう何度も迫ります。しかし淀殿と秀頼はこれをよしとしませんでした。その後、1614年に起きた京都方広寺鐘銘事件(秀頼が方広寺再興の際に作らせた鐘の「国家安泰」の文字が「徳川家康」の名を分割しているため、家康の身首両断を意図していると難癖をつけられた事件)がきっかけとなり「大坂冬の陣」が始まります。

この時には真田信繁(幸村)の活躍もあり、なんとか大阪城の堀を埋めることを条件として和睦しました。しかしその後、1615年に秀頼が堀を掘り返したことで「大阪夏の陣が勃発し、すでに防御要塞でなくなっていた大阪城ではどうすることもできず豊臣は敗北しました。淀殿と秀頼は「籾蔵」に隠れ自害し、火薬に火をつけ自爆したと伝えられています。

「3度の落城」茶々の壮絶な人生

戦国時代に生きた女性の多くが、波乱万丈な人生を歩んでいたと思いますが、茶々の人生は本当に壮絶でした。現代では考えられませんが、戦国時代の女性は「戦のかけひき」に利用されていたのです。

茶々がこの世に生を受けてから、大阪城で秀頼と共に自害して果てるまで、どのようにして生まれ、どのように追い込まれたのか、茶々の生涯を少し説明します。

茶々の誕生

茶々は1615年6月「浅井長政」と「お市の方」との間に長女として生まれました。お市の方は織田信長の妹です。妹で次女の「」は京極高次に嫁ぎ、三女の「お江」は後に徳川秀忠の正室となりました。茶々を含む三姉妹は浅井三姉妹と呼ばれています。

お市の方は若く美しく、当時有名な美女だったようです。長政は朝倉義景と同盟関係にあったため、この結婚に乗りきではありませんでした。しかし信長が執拗に結婚を勧めてきたため、「朝倉氏を攻撃する際には事前に報告する」という誓いを交わし、お市の方と結婚することになったようです。

信長は大層喜び、結婚資金をすべて出したといわれています。長政とお市は政略結婚でしたが、周囲がうらやむほど仲が良く、そんな両親に愛情を注がれた茶々たちは幸せな生活を送っていたのです。

【小谷城陥落】浅井家の滅亡

長政、お市の方、そして浅井三姉妹の幸せな暮らしは長く続きませんでした。1570年、いよいよ信長は朝倉義景と交戦状態となりましたが、長政は朝倉に味方します。将軍足利義昭が斡旋し一度は和議を結びましたが、翌年になると再び信長と長政は刃を交えることとなります。

1573年足利義昭が追放され、朝倉・浅井連合軍は信長に滅ぼされました。信長は浅井長政と久政の首に漆と金粉を施し、それを家臣に披露したといいます。この逸話は織田信長の残虐性を伝える逸話として伝えられていますが、敬意を払い死に化粧をしたのでは?ともいわれています。この戦いによって浅井家は滅亡しました。

小谷城に攻め込まれた長政は、父久政と共に自害し、お市の方と浅野三姉妹は信長に引き取られます。信長は尾張の清須城に入ったお市と浅野三姉妹を気にかけ、厚遇したそうです。茶々たちはこの清州城で9年暮らしました。

【北庄城陥落】母お市と柴田勝家の死

1582年、明智光秀の謀反により「本能寺の変」が勃発し、信長は自害しました。主君である信長の仇「光秀」を討つために「中国大返し」により光秀を追い込んだ秀吉は天下取りに名乗りをあげます。

秀吉はお市の方に憧れており側室にしたい気持ちがあったようですが、お市の方は「柴田勝家」と再婚しました。お市の方と茶々を含む3人の娘は、柴田勝家の本拠地である越前北庄城へ入ります。しかし柴田勝家と豊臣秀吉は次第に敵対関係が強くなり、とうとう「賤ケ岳の戦い」に発展しました。

柴田勝家は秀吉に惨敗し北庄城に逃げ戻り、豊臣軍はそれを追い北庄城を強く攻撃します。柴田勝家はお市の方と共に自害し、北庄城は矢を放たれ燃え落ちました。「茶々」「初」「お江」の3人の娘は自分の父と義理の父の仇である「豊臣秀吉」に保護されたのです。

母・兄・義理の父の仇「羽柴秀吉」の側室へ

秀吉によって保護された姉妹たちは、そこからそれぞれお嫁に行きます。次女の初は京極高次に、三女のお江は佐治一成に嫁ぎました。(佐治一成・羽柴小吉秀勝のあとに徳川秀忠と再婚している)そして茶々は、豊臣秀吉の側室として大阪城に入りました。

なぜ27歳という若い茶々が、当時50歳を超え、しかも父や義父、兄、そして母の仇ともいえる秀吉の側室になったのか、定かにはなっていません。一説には秀吉がお市の方にあこがれを持っており、その面影を最も継いでいた茶々を側室にしたのではないかといわれています。

秀吉は部類の女好きで、茶々と同じように、対戦した戦相手の娘や妻が側室になることもありました。今となっては何が本当なのかわかりませんが、茶々は秀吉の側室となり、将来豊臣家の家督を継ぐ秀頼の母となったのです。

鶴松の誕生と死・秀頼の誕生と死

側室となった茶々は1589年に秀吉の子を授かります。丈夫に育つようにと当時の民間信仰に倣い「」(赤子が大切な存在だと魔物に知れると赤子の命を取りに来るので、わざと粗末に扱うふりをするという民間信仰)という名を付けました。「捨」は後の「鶴松」です。

秀吉は正室の「ねね」との間に子がなく、他の側室との間に子ができましたが、幼くして亡くしています。そのため秀吉は溺愛していたといいます。山城国の淀城を茶々に与えたほどです。しかしこの子も病死しました。

1591年、茶々は再び秀吉の子を生みます。この子は「拾」と名付けられ、後に「豊臣秀頼」と改名しました。57歳で生まれた秀頼を秀吉は狂喜ともいえるほどかわいがりましたが、秀頼の未来を案じながら62歳でこの世を去りました。

豊臣秀吉の死と関ヶ原の戦い

豊臣秀吉がこの世を去り、正室であった「ねね」(北政所)は出家し「高台院」となりました。しかし側室の茶々は出家せず、家督を継いだ豊臣秀頼の後見人として政治に介入し始めます。秀頼と共に茶々は家政の実権を掌握したのです。

秀吉が亡くなったことで家臣の中では「石田三成派」と「徳川家康派」が対立し始めました。この緊張状態のバランスをうまくとっていた「前田利家」が亡くなり、とうとう敵対関係が表ざたとなります。

1600年に上杉征伐に動いていた徳川家康に対し石田三成が挙兵します。淀殿はこの事態をなんとか鎮静化するため、家康に書状を送りました。しかしこれが「石田三成の謀反」を認める形となり、結果「豊臣秀頼様のために」という大義名分をもって家康が挙兵します。これが「関ヶ原の戦い」です。

三成は戦いを正当化しようと秀頼のお墨付きと出陣を願いましたが淀殿は良しとせず、西軍にも東軍にも力を貸すことはありませんでした。結果、豊臣秀吉の家臣のうち「加藤清正」「福島正則」らが東軍に加担し、関ヶ原の戦いは「徳川方」の勝利となりました。

【大阪城陥落】大阪冬の陣と大阪夏の陣

徳川家康は1603年に征夷大将軍となります。その2年後には将軍職を息子の秀忠に世襲させ、家康は隠居しました。茶々は秀頼が将軍になることはかなわないと知ると激高したそうです。家康はさらに秀頼が江戸に下向し、茶々も人質として江戸城に入るか国替えするようにと要求してきました。

家康の主こそ私と思っていた茶々はこの屈辱的な要求をのまず、1614年「大坂冬の陣」が勃発します。しかし豊臣側に味方する大名たちはなく、秀吉が残したお金を使い浪人を集めたといいます。豊臣に加勢してくれた「真田信繁(幸村)」が活躍したものの、1615年の「大坂夏の陣」において、とうとう大阪城は落城しました。

小谷城から始まり、清須城に大阪城と、茶々は人生の中で「3つの落城」を経験したことになります。燃え盛る大阪城で茶々は秀頼と家臣らと共に自害しました。

茶々はどんな人?

茶々の母親であるお市の方は戦国時代きっての美女といわれる女性です。その面影をもっともよく継いでいたのが茶々であるといわれています。ただ一説には淀殿は実父の浅井長政似で、体格もがっちりした大柄な女性だったともいわれており、いずれが正しいのかわかっていません。

歴史の本などを読むと、気も我も強く、自信過剰で我儘な性格などと書かれていますが、これは徳川方が行った印象操作の影響があるといわれています。

しかし最近の研究によって、以下のような説もでてきました。

  • 茶々はヒステリーではなくキリスト教禁止令により煙草を吸えなくなったことからくる中毒症状だった
  • 気は強いが政治に精通していることもなく資質もなかった
  • 茶々が政治の舞台に出ていたのは権力欲ではなく有能な家臣がいなかったから

織田信雄を大阪城に住まわせたり、秀忠とお江が結婚する際、前夫の羽柴秀勝との間の子「定子」を引き取り育てていたこともあります。このように茶々は情に厚く、お人好しな面があったのです。人を信じやすくだまされやすいところもあり、家康を信用し策略にはまり、そこから豊臣の滅亡が始まったと考えると、茶々は本当にごく普通の妻・お母さんだったのかもしれません。