藤原道長は平安時代中期に活躍した貴族で、摂政・関白を歴任しつつ4人の娘を天皇に嫁がせた人物です。藤原氏の全盛期を築いた道長ですが、晩年に苦しめられた糖尿病が死因となっています。

糖尿病は現代人にもなじみの深い病気であるため、具体的に道長が悩まされた症状や彼がかかってしまった背景は今後の健康を考える上で有益です。藤原道長の死因について、背景や治療法、現代に発行された切手とともに徹底解説していきます。

藤原道長の死因は糖尿病!

藤原道長の死因は糖尿病!

藤原道長は平安時代を代表する貴族で、藤原氏の最盛期を築いた人物です。2024年の大河ドラマ「光の君へ」でも登場し、話題にもなっています。

ただ栄華を極めた道長も、晩年はある病に苦しんだ末に亡くなりました。道長の死因となった病は、実は現代人にとっても決して他人ごとではない糖尿病です。道長がいつ頃から糖尿病を発症し、どのようにして亡くなったのかを知れば、現代人にとっても今後の健康を考える上で参考になります。

50代を迎えた頃に水を多く欲するように

藤原道長が糖尿病を発症したのは、50代を迎えた1016年頃です。50代を迎えた頃の道長は、すでに藤原氏全体家の当主「氏の長者」として君臨し、2人の娘を天皇に嫁がせていました。しかも自らも1016年に幼少の天皇を後見する摂政の座に就いています。いわば人生の華やかな時期を迎えていた頃です。

しかし当時の道長はしきりに水を摂取するようになっていました。実は水をことさら欲しがるのは糖尿病の症状の1つで、かつては「飲水病」と呼ばれていたほどです。しかも糖尿病は初期症状はほとんど感じないため、水を欲しがるようになっていた時点でかなり進行していたと考えられます。

ちなみに1016年には胸の病も発症していて、2ヶ月で実に30回もの発作に襲われました。

「望月の歌」を詠んだ頃には病状が深刻なものに

藤原道長といえば、いわゆる「望月の歌」を詠んだことでも有名です。1018年に三女の威子(いし)が天皇の后になって道長の権勢が絶頂を迎えたため、彼は10月16日の夜に催された祝賀の宴で以下のように詠んでいます。

この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば

事実上の最高権力者として君臨し、自らを完璧な存在とまで考えていた彼の感情が伝わる一句です。

ただ望月の歌を詠んだ頃の道長は、すでに視力が大きく落ちるほど糖尿病の症状が進んでいました。4ヶ月後に記された彼の日記にも、2~3尺先(60~90cm程度)の人の顔もよく見えなかった記述があるほどです。加えて1018年4月の彼の日記にも、糖尿病による狭心症のためか、胸の病で苦しむ様子が書かれています。

糖尿病による合併症で死亡

藤原道長は望月の歌を詠んだ1018年から10年後に62歳で亡くなりました。亡くなる瞬間まで糖尿病や合併症に苦しんだことが、彼自身の日記や同じ藤原一族である実資(さねすけ)の日記『小右記』に多く記述されています。

最晩年近くになると、背中にできた大きな腫れものにも苦しめられるようになりました。腫れものについては、何度も針を刺して膿を出していたほどです。糖尿病で抵抗力が落ち、血流が悪くなったことで腫れものが現れたとされます。

1028年に亡くなった際には、症状がさらに進んで敗血症や多臓器不全に陥っていました。最初は頻繁に喉の渇きを覚えるようになった最高権力者は、糖尿病が徐々に進んだために命を落とす羽目になったと考えられます。

藤原道長が糖尿病になったのはなぜ?

藤原道長が糖尿病が死因となった理由は様々です。しかし彼が糖尿病になった原因は、実は現代人が生活習慣の中で気を付けるべき点とも見事に重なります。

道長が糖尿病を患った原因を知ることは、普段の生活の中で糖尿病を予防などを通じて備えるのにおすすめです。

道長が糖尿病になった原因として、以下の3つが挙げられます。

原因①:平安貴族の贅沢すぎる食事習慣

最初の原因として考えられるのが、平安時代の貴族の贅沢すぎる食習慣です。通常の食事で出される料理だけでも主食に米、副食に野菜・魚鳥類・海藻類・果物類と数多くの品が並んでいました。貴族向けの品の多さは当時にしては非常に豪勢だった分、摂取するカロリーが増える要因にもなりました。

一方で道長のような上級貴族の場合、酒宴も頻繁に催されます。3日に1度のペースで催されていたとされ、特に道長のような権力者クラスの場合、様々な付き合いで酒宴に出席する機会も頻繁でした。当時の酒は濁り酒で糖分が多かった分、糖尿病のリスクに拍車をかけたとされます。

加えて平安時代の貴族は室内中心の生活に偏っていたため、運動不足に陥りやすかったのも特徴です。肥満のリスクさえあったことも一因と考えられます。

原因②:最高権力者としてのハードな日々

また道長の場合は、最高権力者としてハードな日々を過ごしてきたことも原因です。彼は摂政・関白として事実上国政の最高責任者であったため、普段も政務に長い時間を割かなければなりませんでした。

普通の貴族であれば午前3時ごろに起きて夜明けに朝廷に出仕し、お昼には仕事を終える程度で済みます。しかし最高権力者としてこなすべき政務が多かった道長は、午後や夜も会議や事務作業に時間を充てなければなりませんでした。当然ながら睡眠や自由時間を満足に取れない生活ぶりでは、心身に疲労やストレスが溜まります。

加えて道長の場合は、若い頃から同じ藤原氏内で権力抗争を繰り広げてきた点でもハードでした。1つ間違えれば自分が左遷・追放の憂き目に遭いかねなかったことも、強烈なストレスになっていたと言えます。

原因③:道長の一族の死因も糖尿病

さらに道長の一族も糖尿病が死因であったため、遺伝も考えられる要因の1つです。実は道長の藤原氏は糖尿病患者の多い家系で、道長の長兄・道隆や叔父・伊尹(これただ)も糖尿病が原因で亡くなっています。

特に道隆は一時は氏の長者と摂政・関白として栄華を極めたものの、43歳の若さで亡くなりました。平安時代後期の歴史書『大鏡』によれば、彼が元から大酒飲みであったことが記され、当時のお酒が当分多めだったことが彼の死期を早めたと考えられます。なお、平安時代の歴史物語『栄花物語』によれば、道隆は糖尿病のせいか、水を多く飲んでいて身体もひどく痩せた様子でした。

藤原道長は糖尿病治療に蘇を食した

藤原道長は糖尿病治療の一環として、「蘇」(そ)と呼ばれるチーズを好んで食していました。蘇は7世紀末から8世紀初頭に即位した文武(もんむ)天皇の時代から登場し、薬用だったと考えられています。国内でも作られていたものの、平安時代の貴族は中国からもたらされた蘇が人気でした。

道長が治療のために食していた蘇ですが、摂取の方法に問題があったとされます。蜜をかけた「蘇蜜煎」として服用していたためです。治療目的だったはずが、蜜をかけて糖分を増やしたために、かえって症状を悪化させたと考えられます。

国際糖尿病会議開催の記念切手に藤原道長が登場

藤原道長は1994年に切手になったことがありましたが、実は糖尿病になっていたこととの関わりが深いです。というのも、切手は1994年に国際糖尿病会議が日本で開催された際に記念で発行されたものでした。

切手の図柄に採用された理由も、道長が日本の歴史上最初の糖尿病患者と考えられていたためです。ちなみに切手には道長のほか、治療に使われるインシュリンの結晶も描かれています。

藤原道長とはどんな人物だった?

藤原道長は平安時代中期の貴族で、藤原氏の全盛期を築いた人物です。966年に藤原兼家の五男として生まれたため、当初は権力とは無縁の存在でした。しかし父や長兄の道隆、次兄の道兼が相次いで亡くなった後は、一気に政権を掌握します。

政権掌握後は朝廷の最高位である摂政・関白に就任した上に、4人の娘を天皇の后として嫁がせました。うち3人が皇子を出産したため、道長は天皇の外祖父として君臨しています。