徳川秀忠は正室である「江」を中心に多くの子供に恵まれました。徳川家光をはじめ、多くの子孫を残した一方、その末裔にも魅力的な人物が多くいます。

今回は、徳川秀忠の末裔を中心に、末裔に関するエピソードや後世に与えた影響などを詳しく解説していきます。

徳川秀忠の末裔はかなり波乱万丈であるとともに、奇跡のようなドラマや避けることのできなかった悲劇など、ドラマとして描かれてもおかしくないような出来事が多く存在しているのも特徴的です。

大河ドラマではあまり触れられることがないであろう、徳川秀忠の末裔について、エピソードを交えて紹介していきます。

徳川秀忠の末裔・主な人物を紹介

徳川秀忠の末裔は数多くいますが、その中でも代表的な人物を以下にまとめました。

  • 徳川家最後の将軍「徳川慶喜」
  • 七代将軍「徳川家継」
  • 859年ぶりの女性天皇「明正天皇」

正室「江」との間に生まれた男子2人・女子5人計7人の子供からどのように末裔につながっていったのか気になる方も多いはずです。本項目では、代表的な3人の人物について解説します。

徳川家最後の将軍「徳川慶喜」

徳川家最後の将軍となった徳川慶喜も徳川秀忠の末裔です。徳川慶喜は徳川御三家である水戸藩の出身で、祖父・徳川治紀、父・徳川斉昭と代々受け継がれてきました。

祖父・治紀の母方を辿っていくと、備前岡山藩の池田家にたどり着きます。この池田家に正室として迎え入れられたのが「勝姫」という女性です。

勝姫は徳川秀忠の長女「千姫」の娘であり、徳川秀忠の養女として池田光政と婚約し、明治に至るまで光政の直系で継承されていきました。

徳川秀忠の直系が途絶えた中、千姫からのルートがうまくつながっていき、最終的に徳川慶喜までたどり着きます。

七代将軍「徳川家継」

七代将軍「徳川家継」は徳川家光から続く直系最後の継承者です。父である徳川家宣は子宝に恵まれ、正室・側室合わせて5人の男子がいました。

ところが、家宣の子供たちはことごとく早逝し、生まれてすぐに亡くなるケースが珍しくありませんでした。徳川家継が将軍職に就いたのは家継がまだ3歳の時でしたが、家宣の子供が3歳まで生きることの方が珍しい状態だったのです。

まだ6歳の時に縁組を済ませるなど、将軍としての立場を固めていく最中、風邪をこじらせ肺炎となり、満6歳でこの世を去りました。

結果として、徳川家直系の継承は家継で途絶えてしまい、八代将軍吉宗以降は徳川御三家から将軍を迎える形が採られるようになります。

859年ぶりの女性天皇「明正天皇」

明正天皇は第109代の天皇であり、859年ぶりに誕生した女性天皇です。明正天皇は父の後水尾天皇と徳川和子(とくがわまさこ)の間に生まれた子供です。

和子は徳川秀忠と「江」の間に生まれた七人姉弟の末っ子にあたり、和子が4歳の時には祖父である徳川家康によって、後水尾天皇の妻となることが約束されます。

父・後水尾天皇からの譲位は、明正天皇がまだ7歳の時でした。当時朝廷は徳川家の政治的な圧力を受けており、自由があまりなかったため、辛抱たまらず譲位したという説があります。

結果として859年ぶりの女性天皇となった明正天皇ですが、まだ幼かったこともあり、上皇となった後水尾上皇の院政が敷かれ、21歳の時に皇位を譲ることになりました。

徳川秀忠の末裔たちのエピソード

徳川秀忠の末裔たちにはさまざまなエピソードがあります。そのエピソードは以下の通りです。

  • 千姫から徳川慶喜に至る奇跡のリレー
  • 家継の早世を予期していた父・家宣の遺言
  • 生涯独身にならざるを得なかった明正天皇

ここからは上記のエピソードについて詳しく解説します。

千姫から徳川慶喜に至る奇跡のリレー

千姫はわずか7歳で豊臣秀頼と結婚し、豊臣家に嫁ぎました。のちに大坂の陣では父・秀忠、祖父・家康と真っ向から対峙し、夫・秀頼、夫の母であり、「江」の姉でもある淀殿が自害する中、家康によって命を救われます。

その後、本田忠刻と再婚し勝姫を産みますが、男子に恵まれず夫にも先立たれ、勝姫と2人で暮らすことになり、勝姫は秀忠の養女として池田家に嫁いでいきました。

その後、池田光政の息子である池田綱政から池田政純へ、政純の三女・静子が一条家に嫁ぐと長女・溢子が徳川治保の妻となり、治紀を産み、慶喜までつながります。

どこで途絶えても決しておかしくない中で、秀忠からのバトンは徳川御三家の1つである水戸藩に渡り、徳川家最後の将軍につながったのです。

家継の早世を予期していた父・家宣の遺言

48歳で将軍となった徳川家宣はわずか数年で病に倒れてしまいます。この時、家継はまだ3歳と幼く、家宣は息子ではなく、徳川御三家である尾張徳川家の徳川吉通を後継者にしようと考えました。

家宣は遺言として、一旦家継を次期将軍とするものの、後見人として吉通が政務を行い、家継が成人するまでに亡くなれば吉通が将軍になるという文言を残そうとするほどでした。

家宣の子供はいずれも早逝し、家継も同じ運命を辿ることは避けられないと考えていた可能性が高く、家継が成人するまでに亡くなることを想定した遺言を残そうとしたと言えます。

一方で、徳川吉通は家継が将軍となった半年後、わずか25歳で不審死を遂げるなど、多くの謎が残されました。

生涯独身にならざるを得なかった明正天皇

7歳で女性天皇となった明正天皇ですが、これまでの女性天皇は独身の状態で即位し、その後も結婚・出産をするケースはありませんでした。

明正天皇も例に漏れず、21歳で皇位を譲るまで結婚・出産はなく、74歳で亡くなるまで生涯独身を余儀なくされます。

そもそも明正天皇は、後水尾上皇の側室に男子が生まれるまでのリリーフとして起用された説が有力で、即位して数年後に生まれた後光明天皇が引き継ぐことになりました。

また幕府の影響力を小さくしたいという思いが朝廷内にあったため、生涯独身にならざるを得なかったと言えます。

徳川秀忠の末裔たちが後世に残した影響

最後に、徳川秀忠の末裔たちが残した影響について解説します。

数奇な運命を辿った徳川秀忠の末裔たちがどのような影響を後世に残したのか、詳しく紹介します。

265年も続いた江戸時代の骨格を築く

徳川家康から秀忠、家光と続き、男系の血統は家継で途絶えてしまいましたが、江戸幕府最初の100年間は直系でつなげられたことを意味します。

この100年で江戸時代の骨格は築かれたといっても過言ではありません。戦国時代から平和な時代への切り替えもうまくいき、全国の武将を統率するシステムが確立されました。

八代将軍「徳川吉宗」以降、徳川御三家が江戸幕府を支えるようになっても、最初の100年で築かれた骨格が政権を支え続けたことは言うまでもありません。

特に家康・秀忠・家光で築き上げた江戸幕府の礎は盤石なものであり、地方からの反乱を起こさせないようにさせたという事実はあまりにも大きいと言えるでしょう。

今も徳川家の血筋は受け継がれ続ける

徳川慶喜が20人ほどの子供を授かったこともあり、今も徳川家の血筋は受け継がれ続けています。現在は徳川慶喜家5代当主を山岸美喜氏が務めています。

山岸氏は4代当主だった慶朝氏から指名を受けて5代当主となり、慶朝氏の遺言もあり、家じまいと墓じまいを行っている状況です。

現在も徳川家の血筋は受け継がれているほか、慶喜家とは別の徳川宗家では脈々と継承が行われ続けている状態です。

江戸幕府誕生から400年が過ぎた今もなお、秀忠の末裔たちがこの時代に生き続けています