1615年、大阪夏の陣は豊臣家と徳川家の最終決戦として歴史に刻まれました。この戦いは、戦国時代の幕を引く壮絶なものであり、豊臣家の存続を賭けた最後の抵抗が繰り広げられた壮絶な戦いです。

真田信繁(幸村)や毛利勝永などの名将たちが奮闘する中、豊臣家は壮絶な最期を迎えることとなります。徳川家康が狙った豊臣家の完全な壊滅、その戦いを詳しく紐解いていきます。

大阪夏の陣とは?

大阪夏の陣とは?

大阪夏の陣とは、1615年に豊臣家と徳川家の間で繰り広げられた戦国時代最後の大規模な戦いであり、豊臣家の滅亡を決定づけた歴史的な出来事です。

その規模は豊臣方約5万、徳川方約15万5千とも言われます。

ここでは、大坂夏の陣についてどのようなものだったのか、解説していきます。

大阪夏の陣が開戦された経緯

大阪夏の陣は1615年に豊臣家と徳川家の間で行われた戦国時代最後の大規模な戦いです。この戦いは、豊臣秀吉の死後、徳川家康が力を増し、豊臣家との対立が深まったことが背景にあります。

徳川家康は関ヶ原の戦いで勝利し、豊臣家の領地を大幅に削減していきました。1614年の大阪冬の陣では一度和睦が成立しましたが、その際に大坂城の外堀が埋められ、防御力が著しく低下してしまいます。

豊臣家は再度の戦闘を避けるために兵力を強化をしましたが、状況は厳しくなる一方です。1615年春に、豊臣家は大和郡山城を攻撃し、これが大阪夏の陣の幕開けとなった出来事となります。

大阪夏の陣の参加武将一覧

大阪夏の陣の参加武将一覧

大阪夏の陣に参加した豊臣軍(西軍)と徳川軍(東軍)の主要な武将を表にまとめました。

西軍(豊臣軍) 東軍(徳川軍)
大将: 豊臣秀頼 総大将: 徳川家康
副将: 大野治長 副将: 徳川秀忠
真田信繁(幸村)  松平忠直
毛利勝永 本多忠朝
大野治房 前田利常
明石全登 浅野長晟
木村重成 榊原康勝
 後藤基次(又兵衛) 井伊直孝
長宗我部盛親 藤堂高虎
 真田幸昌 秋田実季
真田信倍 浅野長重
 渡辺糺 松下重綱
大谷吉治 真田信吉
伊木遠雄 六郷政乗
福島正守 植村泰勝
福島正鎮 小笠原秀政
石川康勝 仙石忠政
篠原忠照 諏訪忠恒
 浅井長房 保科正光
江原高次 丹羽長重
 槇島重利 酒井家次
細川興秋 松平康長
薄田兼相 松平忠良
新宮行朝 松平成重
岡部則綱 松平信吉
 御宿政友 内藤忠興
山川賢信 水谷勝隆
北川宣勝 稲垣重綱
徳川義直
徳川頼宣
本多康俊
本多康紀
片桐且元
黒田長政
 加藤嘉明
細川忠興

大阪夏の陣に向けた両者の準備

大阪夏の陣に向けた両者の準備

大阪夏の陣に向けた両者の準備は、戦国時代最後の大決戦に向けて徹底した内容でした。ここでは、詳細について詳しく解説していきます。

豊臣軍による大阪城の防衛準備

豊臣軍は、大坂城を中心に防衛体制を強化するため、いくつかの重要な措置を講じました。まず、豊臣家は牢人や浪人を大量に招集し、これにより城内の兵数は約5万人にも達したといわれています。

また、真田信繁(幸村)は大坂城の南側に「真田丸」と呼ばれる出城を築き、外郭から約70メートル離れた場所に設置され、空堀と三重の柵、櫓などを備え鉄砲隊を効果的に配置して防衛力を高めました。

さらに、豊臣軍は大坂城の修復や補強を行い、兵糧の備蓄も進めていきます。大阪冬の陣での経験を活かし、城の防御力を最大限に引き上げるための準備が整えられます。

しかし、1615年春、徳川家康が大規模な軍勢を率いて大坂城に進軍すると、豊臣軍は防衛体制を強化しながら迎え撃つ準備を整えました​。

徳川家康が密かにすすめた戦闘準備

1614年の大阪冬の陣で和睦が成立した後も、徳川家康は豊臣家の動向を厳重に監視していました。豊臣家が大坂城の修復や兵糧の確保、牢人の招集を行っていることを把握し、これに対応するための軍事準備を開始します。

徳川家康は、大砲の製造や弾薬の確保、さらには多くの兵士を動員するための準備を着々と進めていきます。彼は諸大名に対しても出陣命令を出し、豊臣家との決戦に向けた万全の態勢を整えていきました。

徳川家康は、戦略的な防衛ラインの確保や、敵の動きを封じるための情報網などの確立も進めていきます。このように、徳川家康は計画的かつ周到な準備を行い、大阪夏の陣に万全の大勢で挑むことができました。

大阪夏の陣の重要な合戦

大阪夏の陣の重要な合戦

大阪夏の陣には、豊臣家と徳川家の運命を決めるいくつかの重要な合戦がありました。これらの戦いは、戦国時代の終焉を迎える壮絶な戦いで、歴史的にも大きな意味を持っています。

ここでは、大坂夏の陣でも特に重要となる合戦を紹介します。

道明寺の戦い

道明寺の戦いは、1615年5月6日に行われた大阪夏の陣の重要な戦いです。豊臣軍は後藤又兵衛が率いる部隊が先行し、毛利勝永と真田信繁の後続部隊が続きました。

濃霧のため後続部隊が遅れ、後藤の部隊が単独で徳川軍と戦うことになってしまいます。

徳川軍は水野勝成を先鋒大将とし、松平忠輝や伊達政宗らが指揮を執り、圧倒的な兵力で包囲していきます。後藤又兵衛は勇敢に戦いましたが、最終的に戦死し、部隊も壊滅しました。

その後、薄田兼相や明石全登が奮戦しましたが後退を余儀なくされてしまいます。真田信繁と毛利勝永も到着し交戦しましたが、最終的に退却し、この戦いは約8時間に及ぶ激戦で豊臣軍にとって大きな損失となりました。

八尾・若江の戦い

八尾・若江の戦いは、河内国八尾村および若江村付近で、豊臣軍と徳川軍の間で繰り広げられました。八尾の戦いでは、豊臣軍の長宗我部盛親が指揮を執り、徳川軍の藤堂高虎率いる部隊と衝突しています。

長宗我部勢は藤堂勢の先鋒を攻撃し、藤堂高刑や桑名吉成などが戦死するなど、藤堂勢は大混乱に陥りました。藤堂高虎も退却を余儀なくされ、藤堂勢は壊滅的な打撃を受けてしまいます。

一方、若江の戦いでは木村重成が井伊直孝率いる徳川軍と戦い、激しい戦闘の末、木村重成は戦死し豊臣軍は敗北しました​ 。この戦いで八尾の戦いに勝利した長宗我部勢も、若江の戦いでの木村重成の敗北により孤立し、大坂城への撤退を余儀なくされ、豊臣軍の防御作戦は崩れるかたちとなってしまいます。

大阪夏の陣 最終決戦|天王寺・岡山の戦い

天王寺・岡山の戦いは、1615年5月7日に行われた大阪夏の陣の最終決戦です。この戦いでは、徳川家康と徳川秀忠がそれぞれ天王寺口と岡山口に布陣し、豊臣軍もそれに対応しました。

豊臣軍は真田信繁を茶臼山、毛利勝永を天王寺口、大野治房を岡山口に配置し、徳川軍と激突します。戦闘は正午頃に始まり、毛利隊は本多忠朝隊を撃破し、続いて小笠原隊も撃破しています。

真田信繁は松平忠直隊を突破し、徳川家康本陣に三度の突撃を敢行しましたが、家康の首を取ることはできませんでした。一方、岡山口では大野治房が前田利常隊を撃破しましたが、徳川秀忠本陣が立て直し反撃に転じたため、退却を余儀なくされてしまいます。

大阪城 陥落

真田信繁(幸村)率いる真田部隊を打ち破った徳川軍は、その後迅速に行動、大阪城に侵入しました。

総攻撃により大坂城内での戦闘が激化し、豊臣方の指揮系統は混乱。真田信繁をはじめとする多くの武将が戦死し、豊臣軍は次第に崩壊していきます。

1615年6月4日、豊臣秀頼と母である淀殿は自害しました。これにより、豊臣家は事実上滅亡

徳川軍は戦略と圧倒的な兵力によって決定的な勝利を収め、豊臣家を滅ぼすことに成功しました。これにより、日本は江戸時代という長期の平和と安定の時代に向かいます。

大坂夏の陣は、時代の転換期となる決定的な出来事です。

豊臣軍と徳川軍の戦術と戦略

豊臣軍と徳川軍の戦術と戦略

大阪夏の陣における豊臣軍と徳川軍の戦術と戦略は、この戦いの勝敗を決する重要な要素でした。豊臣軍は徹底した防衛策と奇襲を用いた攻撃を計画し、徳川軍は圧倒的な兵力と組織力を駆使して戦っています。

ここでは、両軍の戦術と戦略についてそれぞれ詳しく解説していきます。

豊臣軍の戦術と戦略

豊臣軍は大坂城を拠点とし、敵を四天王寺の狭隘な丘陵地に引き寄せ、そこで攻撃を仕掛ける作戦を立てました。また、別働隊の明石全登を徳川家康本陣に突入させることで、家康を討ち取ることを目論んでいたとされています。

さらに、豊臣秀頼に出馬を要請し、全軍の士気を高めることも意図していました。豊臣軍の布陣は、茶臼山に真田信繁を配置し、天王寺口には毛利勝永、岡山口には大野治房を配置していきます。

特に真田信繁は、徳川家康本陣に三度にわたる突撃を敢行し、家康を自決寸前まで追い詰めましたが、最終的に攻め切ることはできませんでした。

徳川軍の戦術と戦略

徳川軍は、数で豊臣軍を圧倒しつつ、各所での戦闘を通じて徐々に豊臣軍を追い詰める戦略を採用しました。徳川家康は、前日の戦闘で損害を受けた大和路勢を茶臼山に配置し、松平忠直勢を前方に展開させます。

天王寺口には本多忠朝率いる部隊を先鋒とし、その後方に徳川家康の本陣を置きました。岡山口には前田利常率いる部隊を先鋒とし、その後方に徳川秀忠の本陣を配置しています。

徳川軍は、家康本陣が真田信繁の突撃によって一時的に大混乱に陥りましたが、最終的には数で勝る徳川軍が陣を立て直し、豊臣軍を追い詰めました。